房総平氏 | 芳村直樹のブログ

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◎大河ドラマ『鎌倉殿の13人』

房総平氏について勉強します


50代桓武天皇の孫(或いは曾孫)の

高望王(たかもちおう)は
平朝臣を賜与され臣籍降下
昌泰元年(898) 上総介として任地に赴き
桓武平氏の坂東での基盤を固めます

高望王の長男が平国香(たいらのくにか)
この国香の子孫が伊勢平氏(平家)
平清盛へと繋がります

高望王の3男(或いは4男)は平良将
良将の子が平将門です
学校でも習いましたが
平将門の乱が起きたのは
10世紀前半(935〜940)のことです

今回勉強するのは
高望王の5男・平良文(よしふみ)の流れ

良文の3男・平忠頼(ただより)から
千葉氏、上総氏、秩父氏、河越氏、江田氏、渋谷氏
良文の5男・平忠光から
三浦氏、梶原氏、長江氏、鎌倉氏などが出ます

忠頼の長男が平忠常(ただつね)で
房総平氏の祖とされています

桓武天皇-○-高望王-平良文-平忠頼-平忠常

★平忠常(967或いは975〜1031)
(忠恒、忠経とも)
房総平氏の祖
忠常は父忠頼の地盤を引き継ぎ
常陸、上総、下総に広大な所領を有します
上総介、武蔵押領使に任官されています
(押領使とは警察・軍事職の令外官です)
一説によると
下総国千葉郡にて「千葉四郎」と称します

★平忠常の乱
長元元年(1028)6月
平忠常が安房国国府を襲撃
反乱を引き起こします
朝廷の追討軍は3年にわたり鎮圧できず
房総3ヶ国は荒廃しました
追討使に源頼信が起用されるにおよんで
ようやく忠常は降伏します
忠常の子・常将、常近らは許されました


★平常将(1010〜1076)
(恒将、経将、常昌とも)
父忠常の京への連行に従事
忠常の首は京で晒されますが、
常将らは罪を許されました
下総国へ帰還し「千葉介」と号します
千葉氏の系図では
この常将を初代と見做すことが多いそうです

★平常長(1024〜1108)
(恒長、経長、常永とも)
平常将の子
前九年の役・後三年の役では
源頼義・義家父子に従い戦功を立てます
下総国千葉郷に進出「千葉大夫」と号します

★平常家
(恒家、経家とも)
平常長の嫡男
父より上総権介を継承しますが
嗣子無く没したため
弟(常長5男)相馬常晴が
養子となり、その地位を継承します

★平常兼(1045〜1126)
(恒兼、経兼とも)
平常長の次男
下総国千葉郷に因んで「千葉大介」と号します
千葉氏初代当主とされます

★平常晴
(常時、常明とも)
平常長の5男
下総国相馬郡にて「相馬五郎」と称します
長兄常家が没し、養子という形で
上総氏の家督、上総権介の地位を継承します

*重要ポイント
常晴が実子に家督を継承せず
養子・常重に譲ったので
ややこしやー!!!になります

★千葉常重(1083〜1180)
(恒重、経重とも)
平常兼の3男
千葉氏2代当主(実質的な初代当主)
父より千葉氏を引き継ぎ
下総国千葉郡を継承した上
叔父・上総介常晴より
下総国相馬郡司を譲られ
房総平氏の惣領の座も得ます

★千葉常胤(1118〜1201)
千葉常重の嫡男
官途名「千葉介」
千葉氏中興の祖とも言われます

平忠常-常将-常長-千葉常兼-常重-常胤


千葉常胤〈岡本信人〉

→ 明日もう少し勉強する予定です



★上総常澄
(常隆、常高、常尊とも)
平常晴の子
父常晴は甥の千葉常重を養子として
先祖代々の土地・下総国相馬郡と
房総平氏の惣領の座を譲ります
常重が不手際を起こし
下総国守藤原親通に逮捕監禁されたので
常澄はこれを好機に源義朝の力を借ります
所領をめぐる争いは
常重の子・常胤の代まで持ち越されました

ややこしやー

★上総広常(?〜1184)
上総常澄の8男(嫡男)
房総平氏惣領家頭首
家督や所領をめぐる内紛で
兄弟間の抗争が続いているようです

平(相馬)常晴-上総常澄-広常


上総広常〈佐藤浩市〉

→ こちらも明日もう少し勉強です