佐々木秀義と男子たち | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです


注意●ネタバレあり

◎大河ドラマ『鎌倉殿の13人』



第4回に登場する人物の予習

前のブログで紹介した
岡崎義実(1112〜1200)は
頼朝挙兵時の
治承4年(1180)
数えで 69歳と
かなりの高齢ですが、

もう一人
佐々木秀義(ささきひでよし)という
同い年の老兵が登場するみたいですよ


佐々木秀義〈康すおん〉


佐々木秀義(1112〜1184)

元々は近江国蒲生郡佐々木荘を領し
源為義の娘を妻としたとありますから
源頼朝の義理の叔父にあたります

保元の乱(1156) 
平治の乱(1159)ともに
源義朝(頼朝の父)方に属し
敗戦後 奥州に落ち延びる途中
秩父党の渋谷重国に引き止められ
庇護を受け その娘を娶り
相模国高座郡渋谷荘に住しました
(神奈川県綾瀬市・藤沢市あたり)

頼朝挙兵の際、
大庭景親から頼朝討伐の密事を聞き
嫡男定綱を使いに出して
頼朝に危急を知らせたといいます
4人の男子 定綱、経高、盛綱、高綱を
頼朝に従わせ
その功により本領を安堵されます

元暦元年(1184)
三日平氏の乱において
伊賀伊勢の平家残党と甲賀郡上野村で戦い
90余人を討った後 戦死しました
享年 73


つづいて
佐々木秀義の
4人の男子たちを見てみます


佐々木定綱〈木全隆浩〉


佐々木定綱(1142〜1205)

平治の乱で敗走の後

下野国宇都宮にて客居

治承4年8月たまたま渋谷荘にいて

父に頼まれ 頼朝に危急を知らせました

弟らと堤信遠を討ち取り

頼朝に従い 石橋山の戦いで敗れ

富士川の戦いで勝利し 旧領を安堵されます

その後も戦功をあげ続け

近江、長門、石見、隠岐の守護へ任ぜられます

次男の定重が延暦寺と騒動を起こし

定綱も薩摩国へ配流となりますが

2年後 召還され 鎌倉に戻ると

頼朝は大いに喜んだといいます

幕府の重鎮として活躍しますが

病に倒れ死去します 享年64



佐々木経高〈江澤大樹〉


佐々木経高(?〜1221)

頼朝挙兵では

最初の1本の火矢を放ちます

兄定綱とともに堤信遠を討ち取り

石橋山、富士川、多くの合戦を戦いました

寿永元年(1182)10月17日

生後2ヶ月余り頼朝嫡子頼家が

産所から将軍邸へ入る際の輿を担ぎます

淡路、阿波、土佐の守護へ任じられます

のちに

承久の乱(1221)では官軍に属し

敗戦の末 自害しました




佐々木盛綱〈増田和也〉


佐々木盛綱(1151〜?)

仁安元年(1166)16歳の時より

伊豆国で源頼朝の身辺に仕えています

治承4年(1180)頼朝挙兵では

加藤景廉とともに山木兼隆の首を取ります

石橋山で敗戦の際

平家方である渋谷重国の館に逃れると

重国は喜んで匿い もてなしたそうです

富士川の後も、多くの戦いで活躍しています

元暦元年(1184)12月

備前国児島の藤戸の戦いでは

海峡の波を馬で乗り越え先陣を切り

平行盛を攻め破ったそうです

頼朝没後は出家し

西念と称しますが、

建仁の乱、牧氏事件では軍に加わっています


歌舞伎に

『盛綱陣屋』という演目があるそうです

昨年(2021)9月 歌舞伎座で

僕の大好きな

十代目松本幸四郎さまが

盛綱を演じたみたい

興味あるので

ちょっとばっかし 勉強してみます罠




佐々木高綱〈見寺剛〉


佐々木高綱(1160〜1214)

平治の乱後、京吉田の親戚の家で育ちます

頼朝挙兵では、兄たちとともに戦います

寿永3年(1184) 宇治川の戦い

梶原景季との先陣争いの話が有名です

その後の高綱

長門、備前の守護へと任じられ

安芸、周防、伯耆、出雲、日向などに

恩賞地を拝領しています


宇治川の先陣争いに

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