紫衣事件と大徳寺 | 芳村直樹のブログ

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大徳寺勅使門 画像はWikipediaより借用


勅使門〈重文〉は

慶長年間(1596〜16149)造立の

御所の門を下賜し

寛永17年(1640)移築されたものです


江戸初期に至って

大徳寺は宗勢がもっともふるい

壮大な伽藍が完備されたといわれています


当時のチェックポイント

「紫衣事件」について

書いておこうと思います


■紫衣事件(しえじけん)


紫衣とは、紫色の衣服


古くから紫色は高貴な色とされ

紫色の法衣や袈裟は

宗派を問わず

高徳な僧侶が朝廷から賜りました


僧侶の尊い位を表すとともに

朝廷の収入源にもなっていました


徳川幕府は

慶長18年(1613)

寺院諸法度

(例えば大徳寺法度など)

さらには

慶長20年(1615)

禁中並公家諸法度

(きんちゅうならびにくげしょはっと)

を定め

朝廷が無闇矢鱈に

紫衣や上人号を授けることを禁じました


ところが、


108代 後水尾天皇は、

幕府に諮らず十数人の僧侶に

紫衣着用の勅許を与えたのです


幕府側は、

法度違反とみなし

勅許状の無効を言い渡します


これに反発したのが

大徳寺154世だった

沢庵宗彭(たくあんそうほう)です




沢庵は

この頃すでに

郷里の但馬国出石藩で

隠遁生活をおくっていましたが

急遽京に戻り、大徳寺の僧をまとめ

妙心寺の東源慧等らと反対運動を展開

抗弁書を幕府に提出しました


結果、

幕府に反発した罪に問われ

寛永6年(1629)

沢庵らは流罪となるのです

(沢庵は出羽国上山)


寛永9年(1632)

大御所・徳川秀忠が薨去

大赦令が出され

紫衣事件に連座した者らは許されました


その後

どういうわけか

3代将軍家光が

沢庵を

気にいってしまうのです


沢庵に帰依した家光は

大徳寺と妙心寺に関する寺法度を

元に戻すことを申し渡し

従前通りの出世入院を認めました


紫衣奪還も行われたようで

大徳寺、妙心寺は

ますます発展することとなるのです。。。







ちなみに

沢庵宗彭とは

大根の蓄え漬け=沢庵漬けの

沢庵和尚でござる