継体天皇樟葉宮跡 | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです


昨年5月の頃
万世一系について勉強する中で
「継体新王朝説」を知りました

その 26代 継体天皇は
なななんと
枚方市の樟葉宮(くずはのみや)で
即位したというのです

あんれまあ
毎年 枚方市に出かけているのに
そんな大事な場所を見落としていたとは
恥ずかしいったらありゃしない

是非とも訪ねてみようと思ったわけです


◎関西の旅
○3月4日


枚方市楠葉丘にある
交野天神社(かたのあまつかみのやしろ)の
末社
貴船神社の鎮座する丘が
樟葉宮(くずはのみや)の
仮の推定地とされているそうです

事前の計画では
最寄駅である京阪樟葉駅から
交野天神社を目指し
まずは天神社を参拝してから
末社の貴船神社に回るつもりでした

ところが
男山から樟葉側へ下山という
大冒険をしちまいましたから
貴船神社のほうが
先に現れちゃったわけです






>説明板コピー
継体天皇樟葉宮跡伝承地
けいたいてんのうくずはのみやあとでんしょうち
大阪府指定史跡
武烈天皇の死後、大連大伴金村によって越前の三国(福井県)から迎えられた男大迹(おおど)王は、507年 樟葉で即位したとされます。
このとき王の知己(ちき)であった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)が密使として活躍しており、即位には、北河内を本拠地とする馬飼部(うまかいべ)の大きな貢献があったと考えられます。
継体天皇は、5年後に山背国筒城(つつき)(京田辺市付近)、12年後に弟国(おとくに)(長岡京市付近)に移りましたが、大和国に入ったのは20年後のことです。
以上は『日本書紀』によりますが、『古事記』には、樟葉宮以降については何も記していません。
樟葉宮跡と伝えられるのは、枚方市指定文化財となっている貴船神社のある小丘のあたりです。
なお、関白左大臣一条実経(1223〜84)は、次の歌を詠んでいます。
くもらじな ますみの鏡 かげそふる
くずはの宮の 春の夜の月   (続古今和歌集)
2004年10月   枚方市教育委員会






>説明板コピー
大阪府指定史跡
交野天神社
継体天皇樟葉宮跡伝承地
「日本書紀」継体天皇元年正月甲申の条に「天皇行至樟葉宮」と見え、そこに即位せられた樟葉宮が樟葉と呼ばれたこの地域に営まれたと考えられており、交野天神社境内の東北方に当る小高い丘の上にある貴船神社の付近が継体天皇樟葉宮跡と伝えられている。
村の産土神で穂掛神社とも呼ばれた貴船神社は、現交野天神社社殿のあたりにあったものを樟葉宮跡とせられていた丘に移したものと伝承されている。
大阪府教育委員会



貴船神社のまわりには
枚方市教育委と
大阪府教育委
二つの説明板が置かれるのみでした
のちほど訪ねる
交野天神社の参道に
もう一つ
枚方八景「樟葉宮跡の杜」の
説明板がありました



25代 武烈天皇が
後嗣を決めずに崩御し
直系皇族に男子がいなかったため

15代 応神天皇の5世皇孫
という立場の
26代 継体天皇が即位します

武烈天皇もまた
(こちらは本家ですが)
応神天皇の5世皇孫にあたります

つまり
武烈天皇と継体天皇は
ひいひいひいおじいさんが一緒
という関係になります

かなり遠縁ですよね

それゆえ
この即位には
反対する勢力があって
なかなか大和国へは入れなかった
ということが推察されます


僕にとっては
枚方の樟葉で即位なされた天皇
ということで
何ともラッキーな
ご縁を感じるわけです


ただ・・・



石段の下の石柱には「楠葉宮」
石段の上の石柱には「樟葉宮」とあります

どちらでもいいのでしょうが
できれば統一してほしいものです


なお
貴船神社(きぶねじんじゃ)
祭神は
当地の氏神
高龗神(たかおかみのかみ)
水神(竜神)で雨乞いの神さまです
社殿
一間社流造 檜皮葺
建立年代は不明ですが
建築様式から桃山時代の遺構と推測され
枚方市の有形文化財に指定されています