足利義氏と泰氏 | 芳村直樹のブログ

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八幡太郎源義家の
三男 或いは 四男
源義国(1091〜1155)は
下野国足利荘を領し本貫としました
(元祖足利式部大輔)

義国の長男
源義重(1114〜35)は
新田荘を開墾し 新田氏を名乗り
次男
源義康(1127〜57)が
父の本貫を継承して
足利氏を名乗ることになります
足利氏初代宗家当主です


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足利氏2代目当主
足利義兼(1154〜99)については
かなり以前に勉強しています
参照ブログ●足利義兼


さてほて、今日は

『吾妻鏡』
建長年間の記事に登場した
足利氏3代目4代目のことを
まとめておきたいと思います

3代目当主●足利義氏

生誕 文治5年(1189)
死没 建長6年(1255)11月21日

父 足利義兼
母 時子(北条時政の娘 政子の妹)

義兼三男ながら 正室の所生ゆえ
家督を継ぎ3代目当主となります
終生 北条氏とは懇意だったようです

執権北条義時、泰時を補佐し
泰時の娘を正室に迎えています

承久の乱(1221)以後
三河国守護職となり
東西交流を牛耳る立場を得た
とのことです

仁治3年(1241)
嫡男泰氏に家督を譲り出家
『吾妻鏡』には
左馬頭入道正義と記されています

晩年は長老として
執権北条時頼、重時を支えたことは
前のブログに書いたとおりです

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画像はWikipediaより借用


4代目当主●足利泰氏

生誕 建保4年(1216)
死没 文永7年(1270)5月10日

父 足利義氏
母 北条泰時の娘

こちらも次男ながら嫡子とされ
元服に際しては
外祖父北条泰時から偏諱を賜り
泰氏と名乗りました

最初の結婚は
名越流 北条朝時の娘でしたが
のちに
得宗家 北条時氏の娘を
正室に迎えます

つまりは
4代執権北条経時
5代執権北条時頼とは
義理の兄弟になったわけですね

しかし その室は
宝治元年(1247)3月2日
他界しています


前のブログに書いたように
泰氏は
建長3年(1251)
許可なく無断で出家したことが
幕府から咎められます

下総国における領地は没収
一族の本領である
足利荘平石の地に閉居し
政治の表舞台から姿を消します

5代将軍頼嗣の京都送還に
関連性があると疑う説もあります

泰氏出家後は
嫡男頼氏が家督を継承しますが
これは
祖父義氏が
まだ幕府中枢にいましたし
その政治力によって
地位と所領が安堵されたものと
推察することができます

この5代目頼氏が
なんとなくめんどくさそう
その後
足利氏棟梁は
泰氏ー頼氏ー家時ー貞氏ー尊氏
と続くのですが、

あ、そうそう

宗尊親王の
6代将軍就任の下向に伴い
鎌倉入りしたとされる
上杉重房(上杉氏の家祖)は
武士となって
この足利泰氏に仕えたんですよ

室町時代の
鎌倉公方足利氏と
関東管領上杉氏という関係の
原型が始まるわけです

その話はまたの機会に書きます

実は実は実は

僕は まだ 
iOS8なので
間もなくブログ編集が
できなくなりそうです

さっきは
開かなかったのに
たまたま今はだいじょぶそう

アップできるうちに上げておきます