平清盛の男子たち | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです


次は 6月歌舞伎座
ずいぶんと日にちが
経っちゃいましたが
記録しておくことにします

大人気の義太夫狂言
『義経千本桜』から
今回の公演は
三人の男に焦点をあてた三部制
僕は そのうち
碇知盛を描いた
『渡海屋・大物浦』のみ
一幕見席で観劇しました

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感想ブログを書く前に

平清盛の子供たち
ちんぷんかんぷんなので
頭の中のごちゃごちゃを
ちゃんと整理して
メモしておこうと思います

例によって
4年前(2012)の大河ドラマ
『平清盛』の写真を使用します

平清盛 最初の正室
右近将監 高階基章の娘
(大河ドラマでは明子という名前)
との子供には
嫡男●重盛(しげもり)
次男●基盛(もともり)がいます

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嫡男●平重盛(1138〜1179)
平家の嫡男として着実に昇進し
保元平治の乱の功績から
正二位内大臣となり
隠居した父清盛にかわって
名目上 平家の棟梁となります
大河ドラマでは
真面目で学識があり勇敢かつ
繊細さも併せ持つ優等生とされ
嫡男としての重責から
かなりのストレスがあったように
描かれていました
ただ 重盛存命中は平家全盛期だし
兄弟の中では幸せな人生だったろう
と僕は推察します
妻は藤原成親の妹
成親が鹿ヶ谷の陰謀に加わったため
晩年の重盛が面目を失ったことは
確かにあるかもしれませんね
享年42 病死ですが
胃潰瘍、背中の腫瘍、脚気など
さまざまな説があるようです

ちなみに重盛の嫡男
維盛(これもり)は絶世の美少年
武家というより公卿として育ち
初陣である富士川の戦いで
総大将を務めましたが逃げ帰り
祖父清盛からボコボコにされました
一ノ谷の戦い前後に逃亡し
入水自殺をしています 享年27

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次男●平基盛(1139〜1162)
保元平治の乱での活躍を賞され
蔵人となり その後は
大和国司などに任じられています
ドラマでは
クソ真面目な兄重盛に比べて
おおらかな性格に描かれ
対立しがちな父と兄の仲を
うまく取りもっていたと思います
早逝 享年24 病死ですが
藤原頼長の怨霊に祟られ溺死した
という説もあるようです

基盛の嫡男 行盛(ゆきもり)は
壇ノ浦で入水 或は 討死とされます


◆◆◆


継室 時子の子供として
三男●宗盛(むねもり)
四男●知盛(とももり)
五男●重衡(しげひら)を
調べておきます

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三男●平宗盛(1147〜1185)
異母兄重盛の死後は棟梁となり
父清盛による
治承3年(1179)のクーデターから
院近臣の所領を没収したことが
以仁王挙兵の直接の原因となった
といわれています
清盛没後(1181)は
平家一門を率いるわけですが
臆病なイメージの強い人物です
壇ノ浦で一門が入水する中
死にきれずに泳ぎまわり
嫡男清宗とともに捕虜となります
鎌倉散歩のブログに書いた
義経の腰越状の時
宗盛清宗父子の身柄は
鎌倉の頼朝に差し出されますが
頼朝に助命を乞い非難嘲笑された
というような話まで伝わります
京に護送され斬首 享年39

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四男●平知盛(1152〜1180)
この人物が
今回の歌舞伎に登場する
『碇知盛』です
永暦元年(1160)
武蔵国が清盛の知行国となると
知盛は武蔵守に任じられます
治承4年(1180)以降は
知盛が武蔵国の知行国主となり
多数の平氏家人を獲得しています
鎌倉散歩をする上でも
重要人物なわけですね
最期は壇ノ浦の戦いで
碇を担いで入水と伝わり
それが歌舞伎の題材となるわけで
次のブログに書くことにします

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五男●平重衡(1157〜1185)
墨俣川(すのまたがわ)や
水島の戦いで勝利するなど
武勇の将として名が残ります
南都焼討の大将軍もこの重衡です
一ノ谷の戦いで捕虜となり
鎌倉に護送されますが
平家滅亡後 南都衆徒の要求で
東大寺の使者に引き渡され
斬首されたようです 享年29


そのほか
平家一門の盛盛だらけを
徐々に把握していきたいですが
とりあえず
この5人の名前ぐらいは
しっかり覚えておこうと思います