源頼家 修禅寺に死す | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです




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若狭局墓(妙本寺)


建久3年(1203) 夏
源頼家が重病に伏したまま
還らぬ人となっていたなら
これほどまでの悲劇は
起こらなかったでしょう

きっと北条に毒を盛られたんだよぉ
てな噂ぐらいは
のちのちに語り継がれた
かもしれませんけどねぇw

しかし 現実には
頼家の意識は回復してしまい
結果 妻若狭局と長男一幡は
北条と比企の争いに巻き込まれ
命を落としてしまったわけです

妻子の死を知った頼家の
こみ上げる悲しみ悔しさ
北条時政への怨みつらみ
如何ばかりか
察するに余りあります  ヽ(;´Д`)ノ


9月5日 頼家は
側近の堀親家を介して
仁田忠常、和田義盛に
時政誅殺を命じる書状を送りました

ところが 和田義盛 事もあろうか 
これを時政にバラしてしまうのです
当然 堀親家と仁田忠常は
捕らえられ殺害されています

頼家の抵抗 もはやこれまで  (ノ◇≦。


7日 頼家は落飾(出家)を強いられ
10日 将軍職は千幡(実朝)に移行
15日 千幡が将軍宣下を受けます

北条時政が権力を握った瞬間です
。( ̄Д ̄)ノ


21日 頼家の鎌倉追放が決まり
29日 伊豆修禅寺へと護送されました



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仮粧坂

護送ルートは不明ですが
峠を越えた頼家は二度と再び
鎌倉に帰ることはありませんでした



伊豆修禅寺(しゅぜんじ)は
弘法大師空海が
創建したとされる真言宗の古刹
臨済宗を経て現在は曹洞宗寺院です
空海が湧出させた
独鈷の湯を起源に
のちには温泉街として栄え
いつしか地名は修善寺となりました


岡本綺堂『修禅寺物語』が
歌舞伎でも上演されるようですね
これも是非 見てみたいです
チャンスを待つことにします

頼家が修禅寺に
幽閉されている間の逸話は
またその時にでも勉強しましょう


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修禅寺山門 画像はWikipediaより借用



元久元年(1204)7月18日

頼家は入浴中に襲われ
非業の最期を迎えます

頼家の祖父にあたる義朝も
風呂場で殺されていますが
丸腰の真っ裸のところを
あえて狙われたのは
それだけ頼家が
武芸に長けていた
ということかもしれませんね

それをまたオーバーに
慈円が『愚管抄』に記しています

「フグリヲ取ナドシテコロシテケリ」

急所を切り取ったって意味?
それとも単に押さえつけたってこと?
いずれにしろ
それだけ抵抗が激しかったってことを
伝えたかったのでしょう

が、ここまで書き残されると
よっぽどデカくて印象的だった
ってことかもしれないよん
とか 思っちゃいまっする  ( ´艸`)


刺客たちを差し向けたのが
時政だったのか
それとも
政子だったのか
今になってはわかりません

頼家が 最期のとき
母親 政子に対して
どんな感情を抱いていたか
それもまた
誰にもわからない永遠の謎です



***

天台宗僧侶
慈円(じえん)の著した
『愚管抄』(ぐかんしょう)は
承久2年(1220)頃成立の歴史書です
慈円(1155~1225)は
↓↓↓これに書いた九条良経の叔父
参照ブログ●坊門姫
京都の公家貴族たちについても
ちょっと勉強したんだけど
ブログにまとめる自信が
まるっきりないので
夏の京都旅行までとっておきますw



***

今回は
鎌倉幕府2代将軍
源頼家について
たくさん勉強しました

ネットを徘徊して
他人さまのブログを読みあさり
楽しい時間が持てました

まだまだ書き足らないこと
例えば
頼家が蹴鞠に夢中だったとか
いろいろあるのですが

どこからどこまでが真実か
フィクションとの境目が
ビミョ~にわかりませんでした

歴史書『吾妻鏡』からして
作り話が多いですからねw

もう一点だけ
言っておきたいことがあるので
次のブログに書こうと思います。。。