比企能員の変 | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです



先代頼朝以来の忠臣
梶原景時が失脚後
2代将軍頼家にとって
傳(めのと)であり
妻若狭局の父
つまり舅でもある
比企能員(ひきよしかず)こそが
政権を支えてくれる
最も頼れる存在でした

比企ヶ谷にある
能員邸の敷地内には
頼家と若狭局の長男
一幡のために
新たな館が建てられ
小御所(こごしょ)と呼ばれました

そこで暮らす一幡は
すっかり能員に
なついていたといわれます

***

おもしろくないのは北条氏

この先
一幡が次期将軍になれば
将軍家外戚としての発言権は
比企氏に移ってしまいます

頼家が危篤状態におちいり
その不安が現実味を帯びると
いよいよ北条時政は
頼家の弟
千幡(のちの実朝)の擁立に
動き出すことになります

前のブログに書いた
全国の地頭職を分轄する発令
これはおそらく
宿老たちの合議で決定したもの

そこには北条時政による
多数派工作があったと思うのです

例えば

三浦義明は
一幡の傳(乳母父)なのですが
父三浦義澄と頼朝の遺言により
この前年(1202)
北条義時嫡男 頼時(のちの泰時)に
義明の娘を嫁がせ(のちの矢部禅尼)
この年(1203)には 二人の間に
嫡男 時氏が誕生しています

おそらく この時点で
義明は時政の企みに
懐柔されていたと想像します

***

比企VS北条

御家人トップの座を賭けた争い
はじまりはじまり~!!!

と思ったら
この戦い
なななんと1日で
決着がついてしまうのです

ジェットコースター的展開

ありゃりゃのりゃ ( ;´Д`)

ただし
これは『吾妻鏡』の記事なので
真偽のほどはわかりませんぞw



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比企一族の墓所(妙本寺)



建仁3年(1203)9月2日

意識の戻った頼家が
自分の知らぬ間に起きたことを
妻若狭局から報告を受けたのが
この日の早朝

さっそく比企能員を呼び
北条時政討伐を相談します

これを障子越しに立ち聞きした
北条政子がただちに時政に通報

時政は比企を討ち取ることを
政所別当大江広元に
(消極的ながら)了解をとります

時政は
頼家殿の病気平癒のために
薬師如来の供養をしましょう
とかなんとか言って
能員を名越の時政邸に招きます

比企の家の者は
危険を感じて止めましたが
能員は
武装するのも要らぬ誤解を招くと
平服で のこのこ出かけます

時政邸の皆さんは
武装してお出迎え
能員は
あっけなく誅殺されまっする



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北条時政邸跡といわれたエリア
最近の調査では疑問視されています


異変を知った
比企の一族郎党は
一幡を擁して
小御所に立てこもります

これは謀反じゃ~~!!

北条政子が
比企討伐の命を出したのが
午後3時頃

北条義時を大将とする
幕府軍が比企邸を大襲撃

比企勢も大奮戦しますが
やがて力尽き
小御所に火を放ち
次々と自刃したと伝わります

かくして 比企一族の滅亡

ここまで1日の出来事でござります



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一幡の袖塚(妙本寺)


翌日
焼け跡から発見された小袖に
一幡のものと思われる
菊の模様が確認されました

比企邸跡に建つ
妙本寺には
一幡の小袖を祀った供養塔
袖塚が今も遺されています