源頼家 なぜ??? | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです



皆さんご承知の通り
源氏将軍家の血は3代で途絶えます

3代実朝(1192~1219)暗殺は
さまざまな黒幕説が飛び交うなど
実に面白そうな事件ですが
その前に
2代頼家(1182~1204)のことを
きちんと勉強したいと思います

むしろ僕としては
実朝よりも頼家抹殺のほうが
疑問点だらけで興味津々なんです

だって 頼家は 実の母
北条政子に殺されたんですよ!!!

頼家 なぜ???

政子が 世間で言われるように
いくら冷酷な女性だとしても
自分の腹を痛めた子供を
そう簡単に殺せるものでしょうか?

頼家について
学校の授業では
ほとんど習いませんでしたから
あまりよく知らないんですよね

おエライ学者さんでも解明できない
たくさんの謎がありそうだし
たとえ正解がわからなくても
どんな謎があるのか???
それだけでも
把握しておこうと思っています



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源頼家像(建仁寺蔵)
Wikipediaから借用

↑↑↑これ
ちょっと老けてますよね
とてもじゃないけど
享年23(満21歳)の青年とは
思えない
ここからして謎だ罠w (´0ノ`*)



それでは
ほとんど
Wikipedia丸写しの内容ですが
頼家についてまとめてみます


鎌倉殿 待望の嫡男
頼家が誕生するのは
寿永元年(1182)
頼朝36歳
鎌倉入り3年目のことです

政子が懐妊すると
頼朝は安産祈願のため
鶴岡八幡宮の表参道
若宮大路の整備を行いました

それまでの参道は
曲りくねっていたみたいです
↓↓↓参照ブログ●琵琶橋

北条時政はじめ
幕府の重臣たちが
土や石を運んで
若宮大路の中央に
一段高い参道
段葛(だんかずら)を建設しました

段葛 当初の規模は
一ノ鳥居からのものでしたが
横須賀線開通で半分が撤去され
ニノ鳥居から三ノ鳥居まで
約500mが 現存します

桜の名所として有名ですが
現在は改修工事のため閉鎖中で
今年の春(3月末)完成とのことです


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現在は通行禁止の段葛
*写真は昨年撮影のものです



昔の日本には
乳母(めのと/うば)という
制度(風習)があり
皇族貴族や武家 豊かな家では
母親に代わって乳を与える
乳母を雇いました

本来の目的は
乳児生育のための母乳確保ですが
身分の高い者は
子育てのような雑事をすべきでない
との考え方から
乳離れしたあとも そのまま乳母が
養育係を任されるようになります

頼朝は
自分の乳母である
比企尼(ひきのあま)の一族から
頼家の乳母を指名しました

比企尼の
次女(河越重頼室)
三女(平賀義信室)
甥で養子の比企能員の妻
そして
頼朝の命の恩人でもある御家人
梶原景時の妻 などです

Wikipediaでは
比企能員が乳母父
と書かれていますが
乳母父=めのとぶ?
読み方がイマイチわかりません 汗
ちなみに
僕の持ってる古語辞典をひくと
男の場合には
傳(めのと)の文字が使われています


とにもかくにも
8月12日
比企ヶ谷にある
比企能員の屋敷にて
頼家が生まれます
(幼名 万寿)

後継誕生に はしゃぐ頼朝
まさか この乳母選びが
のちの悲劇の引き金になるとは
思ってもみなかったでしょうね


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比企能員邸跡 妙本寺総門


初代の頼朝が
ビッグな印象を与えるのに対し
とかく頼家は弱々しい感じに
語り継がれたりしますが
いえいえどうして
古今に例を見ないほどの
武芸の達人に成長したそうですよ

これはまだ
頼家12歳のエピソードですが
建久4年(1193)富士の巻狩りで
(曽我兄弟の仇討の現場で有名)
頼家が見事 鹿を射止め
まわりを驚かせたことがあります

頼朝は大喜びで
政子に報告したそうですが
政子は「武士として当たり前」と
言い放ったとかw

頼朝にとって頼家は
父親の言うことをよく聞き
強くたくましく育った
自慢の息子だったでしょうに
母親の政子は
はたして何を望んでいたのか?
よくわかりませんねぇ


建久6年(1195)
頼朝は 東大寺再建供養のため
政子 大姫 頼家を伴い上洛します
主目的は 大姫の入内工作ですが
頼家が鎌倉殿の後継であることも
この折 朝廷側に披露されました

建久8年(1197)
従五位上右近衛権少将に
頼家16歳で 叙されています

***

建久10年(1199)1月13日
突然 頼朝が この世を去ります
享年53

若き頼家に重責を託すには
まだまだ準備不足だったでしょう

もうほんの少し
頼朝が延命して
御家人諸氏に
愛息 頼家への忠誠を
誓わせておいたとしたら
悲劇の幕は上がらなかった
そんな気がしてなりません


次のブログにつづきます。。。