源頼朝の下半身問題 | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです



鎌倉散歩をしていると
数多の歴史上人物が登場します
今年も少しずつ整理をしながら
勉強していこうと思います


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源氏山公園の源頼朝像


まずは 源頼朝の女性関係から

Wikipedia等を参考にまとめます

源頼朝(1147~99)が
伊豆国に流刑となったのは
永暦元年(1160)数え14歳のとき
流人時代の生活は 史料として
ほとんど残っていないそうです

学校の授業の記憶では
北条政子(1157~1225)が
すぐにも頼朝の前に登場する
そんなイメージで習いましたが
それはもう少し経ってからの話

頼朝の最初の妻
というか孕ませた女性は
伊東の豪族 伊東祐親の三女
八重姫(生没年不詳)です


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大河『平清盛』の八重姫


Wiki 源頼朝の項によると
仁安2年(1167)21歳の頃
頼朝は伊東祐親の監視下にあり
祐親が京都大番役の職務で
上洛し留守の間に
八重姫と通じて男子を儲けます
これが頼朝の第一子で長男
千鶴丸(千鶴御前)です

Wiki 伊東祐親の項によると
平家の怒りを恐れた祐親が
千鶴丸を松川に沈め殺害したのは
安元元年(1175)のこととされます

祐親は頼朝も討たんと企てますが
祐親次男 伊東祐清からの情報で
頼朝は命びろいをしています

出典によって年次に差があるものの
頼朝20代前半最大のエピソードです

後者の文章には
北条時政の館に匿われ事なきを得た
とも書かれていますから
もしかすると
頼朝が北条の館に住みつくのは
この時点からかもしれませんね

あわれ八重姫は その後
入水自殺をしたとも伝わりますが
懲りない頼朝は 今度は
北条の娘にも手を出すわけです


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大河『平清盛』の北条政子


頼朝と政子が結ばれたのは
安元3年(1177)
頼朝31歳 政子21歳のとき
翌年 長女 大姫が生まれます

笑えるのは またも頼朝は
舅の北条時政が京都大番役で
留守の間に事を起こすのです

頼朝の行動を観察すると
いつもワンパターンに感じます
もしかしたら 頼朝ではなく
歴史書を著す人間に芸がなく
同じような記事が多いのかとも
僕などは疑ってしまいます

いずれにしろ
学校の授業でのイメージよりも
かなり遅い結婚だったわけです


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大河『平清盛』の源頼朝


さて、
頼朝の浮気で最も有名な相手が
良橋太郎入道の娘
亀の前(生没年不詳)です

伊豆の流人暮らしの頃から
二人の関係はあったみたいですが
鎌倉入り(1180)した頼朝は
亀の前を近くに呼び寄せます

政子が万寿(のちの頼家)を妊娠中
頼朝は 側近たちの家に
(小忠太光家や伏見広綱宅)
亀の前をかこって逢瀬を重ねます

寿永元年(1182)
万寿(頼家)を出産した政子は
牧の方(生没年不詳)のチクりで
亀の前の存在を知りました

牧の方とは北条時政の後妻
つまり政子にとって継母ですが
二人は同世代だと思われます

政子は激怒
牧の方の父 牧宗親に命じて
伏見広綱の屋敷を破壊した話は
嫉妬深い政子の性格を示す
エピソードとして有名です

頼朝が怒って
牧宗親のヒゲを切り辱めると
今度はそれを 北条時政が怒って
伊豆に引きあげてしまったり
なんとも騒々しい一家です

政子の要求で
広綱は遠江国流罪となりますから
この浮気により 頼朝夫婦は
かかあ天下になってしまったと
みるべきかもしれません


ところが
懲りない頼朝は
これと同じ時期に
他の女性に手を出していますよ

新田義重の娘で
なななんと頼朝の長兄にあたる
源義平の未亡人なのです

義重は 嫉妬深い政子を恐れて
即座に娘を他家に嫁がせ(再婚)
自分は本領にひきこもります
それゆえ 新田党は
源平合戦に参陣していません


晩飯を作る時間になったので
つづきは次のブログで。。。