安達盛長 | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです



■オヤジ一人で勉強会 34

大河ドラマ『平清盛』に
藤九郎という名で登場した
安達盛長(あだちもりなが)のこと
もうちょっと調べてみましょう

生誕 保延元年(1135)
死没 正治2年(1200)

まずは 自分のブログを
読み返してみました

今年最初の鎌倉散歩で
鎌倉最古の神社
甘縄神明宮に行きました

神明宮の鳥居の傍には
次の史跡碑が建っていました

碑文にはちゃんと
「盛長ハ藤九郎」とあり
僕の注意力不足を再確認です orz.

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>碑文コピー
盛長ハ藤九郎ト称ス 初メ頼朝蛭ガ島ニ在ルヤ 克ク力ヲ勠セテ其ノ謀ヲ資ク 石橋山ノ一戦 源家ガ 卜運ノ骰子ハ全ク暗澹タル前途ヲ示シヌ 盛長頼朝ニ尾シ 扁舟涛ヲ凌イデ安房ニ逃レ 此処ニ敗兵ヲ萃メテ挽回ヲ策ス 白旗鎌倉ニ還リ天下ヲ風靡スルニ及ビ 其ノ旧勲ニ依ッテ頗ル重要セラル
子弥九郎盛景 孫秋田城介義景 邸ヲ襲グ
頼朝以来将軍ノ来臨屡々アリ 此ノ地即チ其ノ邸址ナリ
大正十四年三月建 鎌倉町青年團



石碑には「足達」と刻まれますが
正しくは安達盛長だと思います

安達盛長の出自は
はっきりしません
藤原北家魚名流 藤原山蔭の末裔
との説もありますが
系図は曖昧で不確かなようです

武蔵国足立郡の豪族 足立遠元が
盛長の甥にあたるとされますが
その後の両家の間に
一族としての協力関係が
全く感じられないことから
信憑性に欠けると僕は思います


治承4年(1180)8月
源頼朝挙兵に際し
藤九郎(盛長)は
使者として関東武士の糾合に奔走
石橋山に敗れ 安房国に逃れた後
下総国の大豪族 千葉常胤を説得し
味方につけることに成功します

奥州合戦(1189)における活躍で
安達姓を賜ったようですが
盛長は生涯 安達姓を名乗らず
嫡男 景盛の代になって
名乗ったともいわれています

碑文の「子弥九郎盛景」
これも誤記で 正しくは景盛です

甘縄神明宮の近く
もしくは
現在の鎌倉駅西口
今大路(今小路)沿いに
安達盛長邸があり
盛長ー景盛ー義景ー泰盛と
代々当主が継いだということです


さて、
大町にある妙本寺では
比企氏について勉強しました

比企尼(ひきのあま)の長女
丹後内侍(たんごのないし)の
再嫁先として
安達盛長の名前が出ました

登場人物に生没年不明が多いため
時系列を整理するのが
なかなか難しいです


源頼朝(1147~99)の乳母
比企尼(?~?)は
頼朝が伊豆に流罪になると
武蔵国比企郡代官となった
夫とともに京から領地へと下り
20年間 頼朝に仕送りを続けました

比企尼の長女
丹後内侍(?~?)は
京にて 二条院(1143~65)の
女房として仕えていて
惟宗広言(1132~89)との間に
島津忠久(?~1227)を産み
離縁したのち 関東へ下り
盛長(1135~1200)に嫁ぎ
安達景盛(?~1248)を産みます


盛長(藤九郎)は
妻である丹後内侍の母
比企尼が頼朝の乳母だった縁で
頼朝の側近になった
との記述が多く見られます

となると 前のブログに書いた
大河『平清盛』の中で
池禅尼の指示というのは
僕の記憶違いかもしれません

いずれにせよ
ドラマで描かれたように
最初は苗字さえ持たない藤九郎は
突然の如く源頼朝の前に
つまりは歴史上に登場するわけです

源頼朝の伊豆配流(1160)
その時点で
藤九郎が頼朝の家人だとすると
それ以前に
藤九郎と丹後内侍が
結ばれていることになりますが
そのあたりの前後関係が
どうも微妙なところです


最初に載せた碑文には
頼朝以来将軍がしばしば
盛長邸を訪れたとありますが
頼朝の場合は どうやら
丹後内侍の病の見舞いのようです

丹後内侍が
頼朝に近しい女性だったため
島津忠久も
安達盛長の嫡男安達景盛も
頼朝のご落胤(隠し子)説があります

生誕年が不明なのは
ご落胤説をたてたいがため
のちに操作された疑いもあります

単なる風説とは思いますが
頼朝が女性にだらしない点も
困ったものです

そんな噂が出るからには
比企尼の娘たちが
美人だったのかもしれません

まあ、丹後内侍という女性は
調べれば調べるほど謎が多い存在で
今の僕には太刀打ちできない
というのが本音です

尚、島津忠久については
大江広元墓の隣に墓がありました



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正治元年(1199)
源頼朝が急逝すると
皆さんご承知のとおり
嫡男源頼家が
鎌倉殿を継承しますが

頼家が直接
訴訟等を裁断することは許されず
「十三人の合議制」という
集団指導体制がとられます

メンバーの中に
このブログの主役 安達盛長
前述した 足立遠元の名もあります

★十三人の合議制メンバー

大江広元、三善康信、中原親能、
二階堂行政、梶原景時、足立遠元、
安達盛長、八田知家、比企能員、
北条時政、北条義時、三浦義澄、
和田義盛

ただ、この合議制
まもなく梶原景時は失脚し
翌年には安達盛長、三浦義澄が
病死したことから
現実に機能したかどうかは疑問です


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画像はWikipediaから借用

頼朝の没後
安達盛長は出家し
蓮西(れんさい)と名乗ります

正治2年4月26日(1200.6.9)没

嫡男安達景盛が家督を継ぎます


北条氏が
伊豆の田舎の弱小豪族から
権力を握る執権までのし上がったと
よく言われますが、
安達氏は
それよりさらに身分は低く
比企尼のおかげで
源頼朝の側近として
地位を保てたものと考えます

盛長自身は
生涯 官職に就くことを欲しない等
自分なりの立場をわきまえていた
そんなふうに思います

それゆえ 景盛ご落胤説もあり得る
とまで書くのは しつこいですねw