四合稲荷と勝海舟 | 芳村直樹のブログ

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四つの稲荷神社を合祀し
「四合」と書いて
「しあわせ」と読ませる
粋な名前のお稲荷さんが
赤坂氷川神社の境内にありました

勝海舟が名付け親だそうです

名付け親といえば
演歌界アイドル氷川きよし
デビュー宣伝戦略の折には
ここ赤坂氷川神社が利用されて
でっち上げ話もありましたっけ

勝海舟の名付け親説は
だいじょうぶですかね~
ここは粋な人柄をたてて
信じておきましょうかw

明治時代の「四合」に
大正、昭和には三社が加わり
「七並」になりました
おっと この命名は僕の冗談です (._.)

説明板の内容
合祀された神社名が並んでいて
非常に面倒くさい文章ですが
参拝した記念に
とりあえず載せておきます

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>説明板コピー
●四合稲荷神社
(しあわせいなりじんじゃ)
*毎年4月15日例大祭
(ご自由にご参列下さい)
・御祭神
宇迦之御魂神
(うかのみたまのかみ)
ーー食物の神、殊に稲の神
・御縁起
①古呂故(ころこ)稲荷(赤坂一ツ木2番地、古呂故天神社境内に鎮座)
②地頭(じぬし)稲荷(氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)
③本氷川(もとひかわ)稲荷(本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座)
④玉川(たまがわ)稲荷(赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座)
以上、四社を明治31年、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により『四合稲荷』と称えられる。
大正14年に、鈴降(すずふり)稲荷神社(赤坂一ツ木町に鎮座)及び、縁起(えんぎ)稲荷神社(赤坂丹後坂下に鎮座)二社を、
また昭和9年に、明徳(めいとく)稲荷神社(赤坂新町に鎮座)を、遷座合祀し、現在に至る。
勝海舟翁筆の「四合稲荷社」という扁額が、現存する。
・附記
古呂故稲荷神社は、古呂故天神社境内、氷川旧社地(氷川御旅所)に祀られていた稲荷社であって、明治17年、氷川旧社地を売却した際、現氷川神社境内へ遷座、のちに四合稲荷に合祀された。
地頭稲荷神社は、享保年間、現氷川神社遷座以前より祀られていた稲荷社である。
本氷川稲荷神社は、本氷川神社(昔は溜池付近にあり、のち承応3年に、現氷川神社の隣地へ遷座、今井の総鎮守として、住民から尊崇を受けていた)境内の稲荷社で、本氷川神社と共に明治16年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された。
玉川稲荷神社は、水道方玉川庄右衛門の邸内社だったとする説もあるが、御神体が玉川上水に流れ来た故に、玉川稲荷と称したものと推定される。明治21年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された。


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勝海舟(1823~99)

幼名および通称は麟太郎(りんたろう)
諱(本名)は義邦(よしくに)
改名して安芳(やすよし)
海舟(かいしゅう)は雅号です

幕末には安房守を名乗り
勝安房と呼ばれ
明治維新後
安房と同音の安芳に改名した
ということのようです
本人はこれを
「あほう」とも読める
と言っていたらしいです
となると
「四合」の名付け親の話は
どうやら間違いなさそうですw

勝海舟は
本所亀沢町で生まれ
入江町で育ちました

赤坂溜池の永井青崖に弟子入り
24歳の時には
赤坂田町に移り住み
私塾を開くなど
その後は亡くなるまで
赤坂を拠点にしています

赤坂の町内を
何度か引っ越したようで
最後の住居跡には
記念碑が建てられています

氷川神社からもすぐの場所です

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>説明板コピー
東京都指定旧跡
●勝安房邸跡
この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が明治5年(1872)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡地です。
その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら『氷川清話』などを遺しました。
その時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993)春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。
その後、氷川小学校が廃校となったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成15年から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザとして使用して現在に至っています。
施設内には、屋敷跡の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。
港区

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勝海舟自身は
同じ「あほう」でも
「安房」を「安芳」に
したはずなのですが
港区の説明板は
「安房」のままです

どちらの「あほう」が
ほんとの「あほう」でしょう???

勝邸跡は
長らく氷川小学校だったとのこと
その小学校の記念碑もありました
刻まれているのは
おそらく校歌だと思います

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>碑文コピー
●氷川小学校
明治41年4月1日授業開始
明治42年6月27日開校式
東に千代田の翠微を眺め
西に芙蓉の麗姿を望む
英傑海舟 住みにしところ
我等が学舎ぞ厳しく建てる
平成5年3月31日閉校




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邸跡の説明文中に出てきた
『氷川清話』とは
氷川きよしの話ではありませんw

勝海舟が晩年
赤坂氷川の邸内で語った
時局批判、人物評を
一冊の本にまとめたもので
吉本襄編纂のものが
広く読まれているのだそうです

ところが編者が意図的に
改ざんした箇所もあるとのこと

吉本版では削除された
勝海舟が
日清戦争に反対だった点は
注目すべきなので
載せておきます

………
日清戦争におれは大反対だったよ
なぜかって
兄弟喧嘩だもの
犬も食わないじゃないか
たとえ日本が勝ってもどうなる
日本は支那と組んで
商業なり工業なり鉄道なり
やるにかぎるよ
いったい支那5億の民衆は
日本にとっては最大の顧客さ
また支那は昔から
日本の師ではないか
それで東洋のことは
東洋でやるにかぎるよ
おれなどは維新前から
日清韓三国合従の策を主唱して
支那朝鮮の海軍は
日本で引き受ける計画をしたものさ
………




赤坂氷川神社境内にある
その他の摂末社の写真を
並べておきます

四合稲荷のすぐそばに一社
西行稲荷社

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西行法師か?と期待したら
ぜんぜん違ってw
享保の頃
西行五兵衛という人が
近くの榎坂で
狐の形をした
稲荷の御神体らしき像を拾い
勧請したというものだそうです

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狐穴のようなものもありました

パワースポットとして
人気ありそうですねw



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氷川神社拝殿前
参道の西側にも
お稲荷さんが二社ありました
名前はわかりませんでした




そして こちらは
九神社という祠です

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天祖、春日、鹿嶋、八幡、諏訪、
秋葉、厳島、金刀比羅、塞神社を
合祀している神社だそうです