高尾太夫 7 何処に眠る高尾 | 芳村直樹のブログ

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高尾太夫を訪ねて

第7話    何処に眠る高尾


2代目高尾太夫(万治高尾)の墓
とされる墓が
都内には2カ所ある

第5話で紹介した
巣鴨の西方寺は
元は日本堤の南側にあったが
もう1カ所は
今も日本堤の北側にある寺である


●春慶院
・台東区東浅草2-14-1


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▲浄土宗月光山春慶院覚道寺

創建  寛永5年(1628)
本尊  阿弥陀如来坐像

淡い色あいの静かなたたずまい
門前には高尾に関する案内はなく
「福徳子育地蔵尊 」
「すこやか地蔵尊」の
標柱が建つだけである

本堂の脇を進むと
墓地入口右側に
その地蔵尊が並んでいる


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墓地入口左側に
お目当ての墓所があった


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▲高尾太夫の墓(春慶院)


たまたま伺った時間帯の
太陽の向きだとは思うが
地蔵尊が明るい空の下にあるのとは
対照的に
本堂の陰に隠れて
ひっそりとした雰囲気が漂い
妙にリアルさを感じてしまう


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>説明板コピー

江戸市街の整備と治安風致政策をたてた幕府は、明暦3年(1657)この年の正月にあった「明暦の大火」ののちに、日本橋の吉原遊郭を浅草日本堤下に移転させた。いわゆる新吉原の誕生である。泰平の世相に伴い、新吉原は繁昌した。高尾太夫は吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたともいわれるが、いずれも三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女であった。 
この墓は、世に万治高尾、あるいは仙台高尾と謳われ、幾多の伝説巷談を生んだ2代目高尾太夫の墓という。細部にまで意匠を凝らした笠石塔婆で、戦災で亀裂が入り、一隅が欠けている。右に遺詠、 
寒風にもろくもくつる紅葉かな と刻む。 
巷説に、仙台の大名、のちに伊達騒動の悲劇の主人公になった伊達綱宗とのロマンスがあり、高尾の綱宗に宛てた手紙の一節
「忘れねばこそ、おもい出さず候」、 
「君はいま駒形あたりほととぎす」の句が伝えられている。この墓は仙台候の内命によって建てられたといわれる。 
昭和63年3月    台東区教育委員会



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▲豊国『頼兼と高尾』


高尾太夫について
とりわけ高尾の墓については
江戸時代から
文化人と呼ばれる人たちの間でも
さまざまな論争が展開されたらしい

世間に広まった噂が
あまりにも大袈裟な話になって
単純な事実がわからなくなる例は
歴史上よくあることだ

何代もいた高尾太夫が
ごちゃごちゃに語られもしたし
西方寺の高尾と
春慶院の高尾は
別の代の高尾とする説もある

しかし、どちらの墓の戒名も
「転誉妙身信女」のようで
おそらく同一人物なのだろう

片方が墓所で
もう片方が単なる供養塔ならば
まるく話がおさまるのだが、
どちらも高尾を埋葬している
と言うのだから困ってしまう


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▲山東京伝 (Wikipediaから借用)

ネット上には
山東京伝 (1769~1858) の
考証随筆『高尾考』(1849) が
全文掲載されている

文語なので
僕はちょっとお手上げだが
山東京伝は 
春慶院の墓を認めているようだ
高尾は病死で
吊し斬り等の話は妄説としている



さて、皆さんは
西方寺と春慶院
どちらの寺を支持するだろうか?

優柔不断な僕としては
どちらがホンモノ
どちらがニセモノなどと
無粋なことは追及しない

抗議などされたら恐いから (笑)

ま、
伝説の遊女の墓がいくつあっても
それぞれ大切に守られているのなら
それはそれで素晴らしいことと思う

それよりも
誰かを誘って吉原に
悲願の天丼を食べに行かないと (爆)


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▲吉原にある老舗『土手の伊勢屋』