関西の旅のレポートです o(^-^)o
さて、淀川
といっても
高温多湿で
さすがの僕も
限界ぎりぎり状態 (≧へ≦);
寄り道もしちゃいましたしねえ~
熱中症も怖いし
河川敷をちょっと歩いただけ
ホテルに戻ることにしました
淀川資料館
堤防の上を走る道路
おそらく旧国道1号線で
現在は府道京都守口線
という名前らしいんですけど、
その道路脇にあった石碑を
載せておきます
●郵便屋の渡し
>石碑碑文コピー
昔、淀川には橋がなく、対岸の摂津の国に行く唯一の交通機関は渡し舟でした。
ここ三ツ矢には枚方地方で最も利用が多く親しまれた枚方の渡し(大塚の渡し)がありました。
明治10年、対岸に鉄道が開通したことにより淀川左岸一帯の郵便物は逓送夫さんがこの渡しで淀川を渡り国鉄高槻駅まで運んでいました。
この渡し場は、これより上流約570米のところにありました。
●明治十八季淀川洪水碑
>説明板コピー
明治18年(1885)6月15日朝から降り始めた豪雨で、淀川の水位は上昇し、ついに18日午前3時、三矢村・伊加賀村の淀川堤防が決壊しました(伊加賀切れ)。
その切れ口は約180mに達し、濁水はたちまち淀川左岸一帯を水没させました。
7月にも豪雨にみまわれ、復旧中の堤防が再び決壊し、濁流は寝屋川流域にも広がり、大阪府内で7万戸余が浸水するという未曾有の大洪水となりました。
決壊箇所は水深が約5.5mもあり、水勢も激しいことから、旧堤防から後退して弓形に仮堤防が築造されました。
土砂は御殿山(万年寺山付近)から採取され、大勢の人夫を動員して、全長約400mに及ぶ大規模な工事でした。
この洪水碑は明治19年に建立されたもので、洪水と復旧の経過が記され、淀川治水の重要性を今に伝えています。
なお、弓形の仮堤防は、旧堤防の完全復旧によりその役目を終え、今は桜町の道筋に名残を留めています。
2010年6月 枚方市教育委員会
枚方水位観測所
上流方向の眺め
下流方向の眺め
枚方大橋が最初に架けられたのは
昭和5年(1930)のことのようです
それまでは
上記の郵便物のように
人の行き来も
渡し舟が活躍していたのでしょうね
ほんとに駆け足で
書いてきましたが
とりあえず枚方市のレポートは
この回をもってネタ切れ!です
お読みいただきありがとうございました
次は『石清水八幡宮』
明日はライブなので
日曜日に書きたいと思っています