御茶屋御殿ほか(大阪府枚方市) | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです




関西の旅のレポートです o(^-^)o



東海道56番目の
「宿場町」として栄えた枚方の町

最初の予定では
旧街道を通り抜けて
淀川に出るつもりでした



街道沿いにあった浄土真宗の寺

●浄念寺(じょうねんじ)
・枚方市三矢町7-21
浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)
松風山浄念寺
本尊・阿弥陀如来

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本願寺8世・蓮如上人の
河内地方巡化に同行した
岩見入道浄念が
明応4年(1495)開創した寺だそうです
天文4年(1535)本願寺兼帯所となり
東西分裂後は西本願寺に属しました
元文4年(1739)には
本願寺15世・住如上人が浄念寺住持を兼務
門跡御坊となっています



この寺の門前にあった
説明板を読んで
ちょっと寄り道をすることに
なったんです

(`▽´ゞ

説明板には
枚方は浄土真宗とゆかりが深い
という話が書かれていました



戦国時代にあった
順興寺(枚方御坊)という寺が
その中心的存在だったようです

永禄2年(1559)
蓮如の第27子(一番末子)
実従が順興寺に入り
一家衆(いっけしゅう)
(本願寺宗主の一族)
の寺院として栄えたとあります

実従の日記『私心記』には
枚方に住む人々の様子が
いきいきと描かれていて
これによると、順興寺を中心に
蔵谷・上町・下町などの町場が形成され
油屋、塩屋、味噌屋の屋号を持つ商人等
多くの人々が住んでいたことが
わかるとのことです


真宗寺院を中心とした集落を
「寺内町」(じないまち)
と呼ぶのだそうです

枚方寺内町は
現在の枚方上之町を中心に
台地上にあったようです


元亀元年(1570)
織田信長の焼き討ちにあい
順興寺は廃されたと推測され
寺内町は衰退してゆきます

江戸時代になると
淀川沿いに枚方宿が形成され
台地上にあった都市機能も
宿へと移ったと考えられるそうです


本願寺分裂後の天和2年(1682)
東本願寺は枚方に再興した寺院に
願生坊の名を与えました

地域の人々は
願生坊を東御坊(ひがしごぼう)
浄念寺を西御坊(にしごぼう)と呼んだ
と記されています





てなわけで、
西御坊だけでは失礼だと思い
東御坊も参詣することにしたのです

街道筋から脇道に入り
南側の高台に向かうと
石柱がありました (゚_゚


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くずした漢字が難しくて読めませんが
本願寺中興の祖といわれる蓮如上人が
この地を訪れたということでしょうか?


そして
こちらが東御坊です

●願生坊(がんしょうぼう)
・枚方市元町6-61
真宗大谷派(本山・東本願寺)
香雲台願生坊
本尊・阿弥陀如来

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枚方は「宿場町」ができる前
浄土真宗の「寺内町」であり
その町の中心は高台にあった

意外な新情報なので

もう少しだけ
高台を上ってみることにしました(o^-')b



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●大隆寺
・枚方市元町1-31

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●意賀美神社(おかみじんじゃ)
・枚方市上之町1-12


全部を書いていたら長文になるので
おもいきって今回は割愛します

さっさと本日のメインに進みましょう


とても町の中心とは思えない
なんとなく寂しい雰囲気の中
坂道を上っていきました


で、
現れたのが
こちらの公園です (^^ゞ


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ただの空き地なんですけどね ^_^;


説明文を読んだら
スゴイことが書かれていたわけですよ


どっひゃあーーー!!!

太閤秀吉の登場です (☆_☆)/~~


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>説明板コピー

●御茶屋御殿跡

京・大阪間を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に、豊臣秀吉が御茶屋御殿を建てたのは文禄4年(1595)のことです。
三矢村に残る記録から、秀吉が「御茶殿」を当地に建てたことが確認できます。
伝承では、秀吉の家臣である枚方城主本多内膳正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたとも言われています。

京都伏見と大阪に拠点を置いた秀吉は、この間をしばしば行き来していました。
中間にあたるここ枚方の地にも立ち寄ったことでしょう。
文禄5年(1596)の淀川堤防修築に際しては、対岸の大塚から枚方の工事の様子を上機嫌で眺めたとの話も残っています。


江戸時代に入ると、御茶屋御殿は幕府公用の施設となりました。
元和9年(1623)には2代将軍徳川秀忠が、
寛永3年(1626)には3代将軍家光が逗留したと記録に残されています。
家光来訪の際には、秀吉が建てた「大茶殿」の脇に桁行5間、梁行3間の御殿が新築されました。


その後は利用されることもなく、
「大茶殿」は承応3年(1654)老朽化により解体され、新築御殿がその用材の収納庫にあてられていました。
しかし、延宝7年(1679)7月1日に起こった枚方宿の火事によって、新築御殿もろとも全焼し、以後再建されることはありませんでした。

御茶屋御殿焼失後も、当地は「御殿山」あるいは「御殿跡」と呼ばれ、東西45間、南北27間の除地(年貢のかからない土地)として特別な扱いを受けていました。


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説明文の中で気になることが一つ

「枚方城主」って???

枚方に城があったなんて
聞いていませんよおーー o(><)o

宿場町であり
港町であり
その前は寺内町であり
その上に城下町だったのかな???

まあ、その話も
今回はつっこまないことにしましょうw



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とにもかくにも

太閤殿下が
この場所に立ったかもしれない
この景色を眺めたかもしれない
と思うと
感慨もひとしおです (*´∇`*)


僕は東京の人間ですからね
徳川の将軍たちが訪れた場所
なんてーのは
しょっちゅう行っているわけで
何の驚きも感じないのですよ


でもねえ
太閤殿下となると

関西を旅してるなあ
と感じちゃうのです

o(*⌒o⌒*)o


で、

話はそこで終わらない

この公園には
またまたスゴイものがありました

どっひゃあーーー!!!
どっひゃあーーー!!!

です


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>説明板コピー

●万年寺山遺跡1号石棺

この場所は枚方丘陵の最北端に位置し、淀川を眼下に望むことができる非常に眺望のよいところで、標高は約31mです。
平成17年10月14日、展望広場の工事中に、南面するここで石棺が発見されました。
この石棺は、組合式箱形石棺と呼ばれるもので、盛り土を切り込んで構築され、内寸が長さ180cm、幅38~40cm、高さは20~30cmあり、石棺内に推定身長170cmと思われる一人分の男性人骨が良好な状態で残っており、頭を西に向けて葬られていました。
石棺の床面は、チャートという川原石を使って石棺内一面に礫が敷きつめられた特異なもので、周囲は北・南ともに長方形に加工された板石を3枚ずつ使用し、東・西に小口石をそれぞれ1枚ずつ配して四方を囲い、その上に厚手の板石状の蓋石を何枚も置いていました。
これらの石材のほとんどが、四国・徳島の吉野川下流域産のものではないかと推定されています。
また、出土遺物が一切ないため、時期を決定することは難しいのですが、礫床の採用や石棺の構築法などから、古墳時代前期(4世紀代)のものではないかと推定されます。

説明板に掲載された写真

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近畿圏ですから
古代から
文化の進んだ地域であることは
想像できましたが、

公園の工事で
人骨の入った石棺が発掘されるとは
恐るべし!!ですね




ちょっと寄り道しただけなのに

蓮如が出てきたり
秀吉が出てきたり
古代の人骨が出てきたり

夏季講習の補習授業を
3時間よけいに受講したような気分(汗)

あまりに突然の展開なので
まとめようもない感じです

でも
旅の恥はかきすて f^_^;

テーマをしぼって散歩するより
こういう突拍子もない展開のほうが
かえって面白いかもしれませんね☆