タイトルを何にしようか迷ったあげく
感じたことを素直に書いちゃいました
散歩ブログ 九段のつづきです
九段下交差点から
目白通りを南へ歩きます
●九段会館
・千代田区九段南1-6-5
昭和初期に流行った
帝冠様式と呼ばれる建築スタイルです
九段会館(旧称・軍人会館)は
昭和9年(1934)軍人のための宿泊施設
として建てられました
226事件(1936)の戒厳令司令部が
置かれたことでも知られています
戦後は遺族会が
ホテルを運営していましたが
一昨年(2011)大震災の時
天井崩落事故が起こり死者が出たため
廃業したと聞いています
その後どうなったのでしょう?
会館内『プリムラ』という店で
憧れの大木康子さんが
毎月第1水曜日に歌っていました
僕にとっては懐かしい場所です
毎年4月の第1水曜日が終わった後
(と言っても数回の話なんですが)
みんなで千鳥ヶ淵に繰り出し
夜桜見物の大宴会をしました
今はもう全てが帰らぬ想い出ですね
◇◇◇
●千代田区役所
・千代田区九段南1-2-1
北の丸清水門の向かい側にあります
千代田区役所HPを読むと
さかんに
景観まちづくり
を推進しているようですが
区役所そのものの景観が
ちょっと変だと僕は思うのです
あ、真下からだとわかりませんw
ちょっと離れた場所から
眺めた景色の中に
区役所屋上の電波塔(?)が
どうにも邪魔なんです
せっかくのお濠端です
もうちょっと美的に考えてほしいです
写真左が清水濠
写真右
千代田区役所から手前(南側)には
明治中頃、大隈重信邸があったそうです
◇◇◇
さて
日本橋川は
区役所の裏側を流れています
前回のつづきを見ていきましょう
俎橋(まないたばし)の次の橋は
区役所横の竹平通りに架かります
●宝田橋(たからだばし)
名前の由来は不明です
太田道灌が江戸城を築く以前から
千代田村、祝田村、宝田村という
めでたい名前が存在していたのですが
その場所が特定できていないようです
橋の創架時期も不明で
記録に残るのは 関東大震災後の
昭和4年(1929)架設の木橋だそうです
復興事業で木橋というのも
僕が散歩で見てきた中では珍しいです
現在の橋は昭和43年(1968)の架橋です
橋を渡った東側
千代田区神田神保町
さらには一ツ橋にも
共立女子大の校舎が建ち並んでいます
◇◇◇
ここで訂正とお詫び
今まで気づかなかったことを
新発見したので
報告します
以前のブログで
「日本橋川に架かる橋で
首都高が被さっていないのは
川の起点近くにある二つの橋
三崎橋、新三崎橋と
隅田川に合流する河口手前の二つの橋
湊橋、豊海橋
計4つの橋だけのように思います」
と書いてしまいましたが、
次の橋
雉子橋(きじばし)は
ちゃんと空の下にありました (☆_☆)
竹橋ジャンクションでは
首都高が三つ又に分かれたおかげで
ちょうどうまい具合に
橋の上が空間になっているんです
やっぱ 歩いてみないとわかりませんね
ほんとにごめんなさい m(__)m
●雉子橋(きじばし)
>説明文コピー
この橋は、雉子橋といいます。名称の由来について『御府内備考』に、「見聞集」云、関東御うち入の以後、から国の帝王より日本へ勅使わたり、数萬人の唐人江戸へ来たり、これらもてなし給には、雉子にまさる好物なしとて、諸国より雉子を集め給ふ。この流のみなかみに鳥屋をつくり、雉子をかぎりなく入をきぬ。その雉子屋のほとりに橋一つありけり、それを雉子橋となづけたりと」とかかれています。これは初め俗称であったのが橋名となってしまったようです。
外濠から平河濠につづいていて、江戸城本丸にも近いため警備も厳しかったといわれます。
「雉子橋でけんもほろほろに叱られる」
警衛の番士に厳しさとのけんけんと鳴く声をかけた意といわれています。
旧雉子橋は、この橋より100m程西側に架けられていました。
平成4年3月 千代田区教育委員会
橋の創架は定かでありませんが
慶長年間(1596~1615)には
存在していたようです
寛永6年(1629)江戸城修築の際
雉子橋御門が設けられます
本丸の近くですから
警備が厳しいのは当たり前です
明治6年(1873)御門は撤去され
木橋だけは残されました
明治36年(1903)鉄橋となりますが
関東大震災の被害は免れず
大正14年(1925)
現在の位置に架け直されました
それが現在の橋とのこと
親柱等を見ても年季が感じられます
そろそろメンテが必要ですよね
南詰から見た雉子橋と
首都高の竹橋ジャンクション