絶対無限の慈悲に生かされているということの実感を、何も遠くまでわざわざ行ったり、難しい修行をしなくても、ひたすら法を聞いて念仏を称えさえすればたやすく得られる、というその教えの易しさも、禅も真言もものにならなかった自分にとっては、とてもありがたいものだった。
そうしてわかってきたのが、浄土教系の仏教というのは、今を本当に喜んで生きるためのものだったのだなということだった。
むかしは浄土教系の仏教というものは、この世のいのちを軽視して、あの世の救いばかり求めるものだと誤解していた。
けれども、浄土教系の仏教は、決してあの世重視の、この世を無視し放棄したものではないと今は思う。
むしろこの煩悩に満ちた自分が、そのままに抱きとめられる生き方なのだと思う。
このいのちをそのままに喜んでいくという生き方なのだと思う。
そう気づいたら、むかし高野山の宝物館で見た親鸞の肖像画を思いだした。
それは、行李を背負った行脚姿の絵で、全身から精気が発しているような、本当に精悍な姿の絵だった。
それまでは、あんまり大した知識もなく、公家出身の甘っちょろいお坊さんぐらいに思っていたので、とても意外な感じがしたのを思い出した。
きっと、誰よりも生命に満ちた強く生き切った人だったのかもしれない、と思われ始めた。
阿弥陀仏というのも、むかしはなんだか迷信のように思っていたけれど、要するに無量光と無量寿、限りない光が満ちた空間と限りない永遠のいのちということを、普段は人が意識することができないそうした究極の存在やこの宇宙の全体というものを、直観的に古代の人がとらえて概念化し擬人化したものだったのだと思う。
だから、南無阿弥陀仏と称えて生きるということは、無限の空間と永遠のいのちというものの中に自分を置きなおして見つめなおすということなのだと思う。
そう思えば、葬式とも迷信とも何も本来は関係ないし、現代人にもとても意味のある、新しい生き方のようにも思う。