グレーゾーンがどうのやら、出資法違反の闇金がどうのとあります
グレーゾーンがどうのやら、出資法違反の闇金がどうのとありますよね? 思ったのですが… 闇金って本当にあるんでしょうか? 元々、多重債務者に対して出資法以上の金利でお金を貸すん...

闇金に五万借りて利息を10日ごとに支払いしてます。 すでに四
闇金に五万借りて利息を10日ごとに支払いしてます。 すでに四回振込みしました。 職場や家族にはまだ電話は来てないですが、仮に利息払った直後に弁護士を立てて弁護士から闇金へ本人及...

今もって、自分が浄土門を理解体得できたとは思わない。
すんなり親鸞さんを好きになったわけでもない。
いまもって親鸞はよくわからないし、読んでいると反発を感じることもある。
どちらかという、文章も簡潔明晰で、人柄も一点非のうちどころのない法然上人の方が、慕われるし、読んでると救われるし自分なりにわかるような気がする。

でも、振り返ってみると、なんだか生まれたときから、自分が気づく気づかぬにかかわらず、巨大な仏縁というものが自分の人生に投げかけられてきたような気がする。
それが大事な時には無意識のうちに働いて、自分を助けて救ってきてくれたように思える。
良かれ悪しかれ、この宇宙全体に生かされて、選択されて生きてきたのだと思う。

そして、それはきっと、遠い昔に、親鸞さんが投げかけた仏縁があったから、だんだんと少しはわかるようになったのだに思う。
法然上人と縁ができたのも、私の場合は、親鸞さんのおかげだったと思う。
「不断煩悩得涅槃」と「摂取心光常照護」、煩悩をたたないでもそのままに救われて生きていく生き方と、いつも永遠のいのちの光に照らされ守られて生きていく生き方というものを、とっくの昔の鎌倉時代に、激しく生きぬく中で自ら明らかにしてくれた親鸞という人は、やっぱり途方もなく巨大な偉大な人だったのだと思う。

今日は、親鸞さんの誕生日らしい。
こんなすごい人を生み出したあの時代と、この国と、当時のいろんな人々と、そしてもちろん親鸞聖人その人に感謝して、今日一日は過ごしたい。
絶対無限の慈悲に生かされているということの実感を、何も遠くまでわざわざ行ったり、難しい修行をしなくても、ひたすら法を聞いて念仏を称えさえすればたやすく得られる、というその教えの易しさも、禅も真言もものにならなかった自分にとっては、とてもありがたいものだった。

そうしてわかってきたのが、浄土教系の仏教というのは、今を本当に喜んで生きるためのものだったのだなということだった。
むかしは浄土教系の仏教というものは、この世のいのちを軽視して、あの世の救いばかり求めるものだと誤解していた。
けれども、浄土教系の仏教は、決してあの世重視の、この世を無視し放棄したものではないと今は思う。
むしろこの煩悩に満ちた自分が、そのままに抱きとめられる生き方なのだと思う。
このいのちをそのままに喜んでいくという生き方なのだと思う。

そう気づいたら、むかし高野山の宝物館で見た親鸞の肖像画を思いだした。
それは、行李を背負った行脚姿の絵で、全身から精気が発しているような、本当に精悍な姿の絵だった。
それまでは、あんまり大した知識もなく、公家出身の甘っちょろいお坊さんぐらいに思っていたので、とても意外な感じがしたのを思い出した。
きっと、誰よりも生命に満ちた強く生き切った人だったのかもしれない、と思われ始めた。

阿弥陀仏というのも、むかしはなんだか迷信のように思っていたけれど、要するに無量光と無量寿、限りない光が満ちた空間と限りない永遠のいのちということを、普段は人が意識することができないそうした究極の存在やこの宇宙の全体というものを、直観的に古代の人がとらえて概念化し擬人化したものだったのだと思う。
だから、南無阿弥陀仏と称えて生きるということは、無限の空間と永遠のいのちというものの中に自分を置きなおして見つめなおすということなのだと思う。
そう思えば、葬式とも迷信とも何も本来は関係ないし、現代人にもとても意味のある、新しい生き方のようにも思う。