法事のたびに聞く、南無阿弥陀仏や阿弥陀経や正信偈って、どんな意味なんだろうとふと疑問に思った。
特に、正信偈は、祖母が亡くなるまで、病院のベッドでも最後まで朝夕おつとめしていたもので、きっと何かすごいものがその中にあるんだろうなあと、その最後の様子を近くで見ていて思い始めた。
そうして、すこし読み始めたら、「不断煩悩得涅槃」という言葉が、胸に響いた。
煩悩を断たずに救われる、という意味だと思う。
これがもし本当だとすれば、煩悩ばかりで、ぜんぜんだめな自分もひょっとしたら救われるかもしれない。
そう思った。
そして、猛烈に法然と親鸞の本を読み始めてみた。
その教えを、きちんと理解できるようになったとは、今もって思わない。
浄土教系だと、信心は賜るものらしいけれど、そんなにはっきりした他力の信心というものを、いまだに私はいただいたわけではない。
でも、そうにもかかわらず、浄土門の仏教が、いまは自分にいちばん近しく、親しく、安らぐように感じる。
なんとなく、安らぐものを感じる。
その理由は、そこに貫かれている、絶対の許しと慈悲の精神なのだと思う。
自分の側の資格や条件(それを浄土門では“機”というけれど)は、全く関係なくて、良かろうが悪かろうが、どんな状態であっても、阿弥陀仏という絶対無限の大悲に摂取されて選択されて救いとられる、という教えだからだったと思う。
その確信が、法然や親鸞の文章には脈打っていて、それを読むと、自分の狭い料簡や視界から、広い広大な世界に連れ出されるような気がした。
もちろん、それだけにとどまるわけではなくて、そうして生かされているいのちのありがたさというものを感じたら、少罪をも犯さじと思い、ご恩返しの生き方に励むのが、法然や親鸞の本当に教えているところとは思うのだけれど、まずはその絶対の救済の慈悲の精神に、本当に心ひかれた。
特に、正信偈は、祖母が亡くなるまで、病院のベッドでも最後まで朝夕おつとめしていたもので、きっと何かすごいものがその中にあるんだろうなあと、その最後の様子を近くで見ていて思い始めた。
そうして、すこし読み始めたら、「不断煩悩得涅槃」という言葉が、胸に響いた。
煩悩を断たずに救われる、という意味だと思う。
これがもし本当だとすれば、煩悩ばかりで、ぜんぜんだめな自分もひょっとしたら救われるかもしれない。
そう思った。
そして、猛烈に法然と親鸞の本を読み始めてみた。
その教えを、きちんと理解できるようになったとは、今もって思わない。
浄土教系だと、信心は賜るものらしいけれど、そんなにはっきりした他力の信心というものを、いまだに私はいただいたわけではない。
でも、そうにもかかわらず、浄土門の仏教が、いまは自分にいちばん近しく、親しく、安らぐように感じる。
なんとなく、安らぐものを感じる。
その理由は、そこに貫かれている、絶対の許しと慈悲の精神なのだと思う。
自分の側の資格や条件(それを浄土門では“機”というけれど)は、全く関係なくて、良かろうが悪かろうが、どんな状態であっても、阿弥陀仏という絶対無限の大悲に摂取されて選択されて救いとられる、という教えだからだったと思う。
その確信が、法然や親鸞の文章には脈打っていて、それを読むと、自分の狭い料簡や視界から、広い広大な世界に連れ出されるような気がした。
もちろん、それだけにとどまるわけではなくて、そうして生かされているいのちのありがたさというものを感じたら、少罪をも犯さじと思い、ご恩返しの生き方に励むのが、法然や親鸞の本当に教えているところとは思うのだけれど、まずはその絶対の救済の慈悲の精神に、本当に心ひかれた。