豆酘崎電燈所は、射光機(探照灯)による夜間時の警戒と加農砲の射撃補助を任務として、砲台前方に2つの照明座が設けられました。

 

見取図で配置を確認します。

 

電燈所は豆酘崎砲台と同じく昭和14年(1939)1月20日に竣工しました。

『日本築城史』には、「電灯照明所は右翼砲座の南方、左翼砲座の東南、標高40メートルの稜線に2個所設置した。照明所北方の180mの地点に地下鉄筋コンクリート造の掩燈所を設け、150センチ可搬式射光機を収容し、照明所に誘導できるように施工した。発電所は掩燈所の北方山蔭に構築した。」と書かれています。

 

掩燈所から砲台高地の西側を通って射光機の誘導路が敷かれていました。現在は遊歩道となっていますが、誘導路の山側には石垣が残っておりケーブルの架設跡を見ることができます。また、2つの照明座の位置には照明界標石が立っています。なお発電所は確認できませんでした。

 

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それでは掩燈所を見に行きますが、上記見取図のP(駐車場)から高地北側の遊歩道を歩いて向かいます。

 

しばらく歩くと掩燈所が見えてきました。

 

入口には鉄扉が残っています。

 

鉄扉は戦後の金片景気で外された(盗まれた)所がほどんどですので大変貴重です。

掩燈所の上部には鉄筋が何本か突き出ていますが、おそらく偽装網を掛けていたのでしょう。また、右縁には電気配線を架設したと思われる金具が残っています。

 

ヨリで鉄扉を見てみます。

 

内部には九六式一米五〇射光機が格納されました。

 

150糎探照灯(射光機)の写真です。射光機は平時には掩燈所に格納しておき、使用時に誘導路を転がして照明座に配置しました。

(電気工学 19(4)(206)より引用・抜粋)

 

内部から入口を見る。

 

小窓がありますが、蓋井島の掩燈所には小窓の上に「湿度計掛」と書かれていますので、同様の用途だったと思われます。

 

他地域の掩燈所では小窓は外周通路に開口していますが、ココは塞がれています。

 

これまた他地域の掩燈所と同じく外周通路が設けられており真後ろの天井が開口しています。

 

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掩燈所から誘導路(遊歩道)を歩きます。

 

誘導路から高地を仰ぎ見ると、第1砲座直下の石垣が見えます。

 

右照明座の場所にはベンチが置かれています。探索された方々の記録を見るとココに照明界の標石が残っているようですが確認していません。

 

右照明座から左照明座に至る誘導路には石垣がよく残っています。

 

電気配線のボックスと架設の金具が見られます。

 

配線の束。

 

左照明座と推測する場所が見えてきました。

 

照明座手前の誘導路がカーブする部分に車輪止めの石が並んでいます。

 

左右両側にあります。

 

右照明界の標石が埋設されています。

 

左照明座と推測する場所です。

 

照明座は戦後展望台になりました。これは2020年12月の写真ですが、、、。

 

今年5月に訪問したら崩落して手摺りが消えていました。

 

照明座の先に初代豆酘崎灯台(現在はミョー瀬照射灯)が見えます。

 

砲台高地を振り返って見ています。

 

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ところで一つ気になることが...。

 

4年前に撮った展望所からの写真では矢印の所に右照明界の標石が立っています。

 

展望所を右照明座とするならば標石の位置が離れ過ぎているように感じますので、もしかしたら右照明座は手前の石が並んでいた場所だったかもしれません。

 

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電燈所のレポートは以上ですが、誘導路沿いに建物の痕跡が残る平坦地があります。

 

見取図では「建物跡?」と書きました。

 

水槽のようなコンクリート桝と瓦礫がありますが、明確な建物基礎は確認することができませんでした。

 

さて、ここには何があったのでしょう?

史料の「対馬要塞歴史」から2つの可能性を記しておきます。

 

①防空監視哨

大東亜戦時中の昭和17年11月に、権現山、姫神、豆酘崎の3か所に新設されたことが書かれています。

ただ、位置的にはちょっとビミョーな感じがします。置くなら後方の87mピークか、さらに後方の尾崎山の方がしっくり来ます。また豆酘崎には電波警戒機陣地も置かれていたので、こちらはさらに後方の電波塔が建っているピークにあったのかもしれません。探すべき遺構がたくさんありますので、探索範囲を広げて再訪したいところです。

 

②水中聴測所

同じく戦時中の昭和19年3月に、対馬島内5ヶ所(厚﨑、棹崎、鳶﨑、郷崎、豆酘)に設置されて対馬要塞に受領されたことが書かれています。

 

水中聴測所とは水中聴音機を用いて敵潜水艦を探索する水測隊の施設です。

海軍は大東亜戦争以前から水中聴音機を装備した防備衛所を沿岸各地に配備していましたが、陸軍が水測要員の教育や聴音機の要塞への配備を始めたのは戦時下の昭和18年以降のことでした。

陸軍が用いたのは菊型水中聴音機でしたが、これは海軍の九七式沿岸用水中聴音機をモデルとしていました。受音器13個を円形に取り付けた架台を海中に設置し、電纜で陸上の聴音機本体と接続して聴音手が目標音源の方向を最大感度で探索する...と言うものでした。

 

右は聴音機を用いて水中聴測を行う聴測手、左は聴測で得られた敵艦の位置を記録する図解室の写真です。

 

陸軍では潜航する潜水艦もしくは目視困難な敵艦船の位置を捕捉し、これに対し要塞砲の射撃ができるよう正確な目標位置の決定が要求されました。そこで昭和18年頃から菊型水中聴音機を各地の要塞に配備する計画を立てましたが、器材設置は大幅に遅れ、壱岐や対馬に水測隊が置かれたものの、機能を十分発揮することなく終戦を迎えました。

 

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以上、豆酘崎電燈所のレポートでした。

 

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[参考文献]

「現代本邦築城史」第二部 第二巻 對馬要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「日本陸軍の火砲要塞砲」(佐山二郎著、光人社ノンフィクション文庫)

「北部九州の軍事遺跡と戦争資料」(花田勝広著、サンライズ出版)

「対馬砲台あるき放題~対馬要塞まるわかりガイドブック」(対馬観光物産協会)

「対馬要塞物語2」(対馬要塞物語編集委員会)

「写真週報(312)」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「電気工学 19(4)(206)」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「対島要塞豆酸崎砲台備砲工事実施の件」(Ref No.C01007724800 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「砲台建設要領書中一部改訂の件」(Ref No.C01005449700 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「対馬要塞司令部歴史 明治19.12.3~昭和20」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「国土地理院地図(電子国土web)」を加工して使用