今日は対馬要塞域内に設けられた弾薬本庫について書いていきます。

 

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銃や砲から発射する弾丸と、弾丸を打ち出す火薬を合わせて「弾薬」と呼びますが、この弾薬を備蓄・保管する場所が「弾薬庫」です。

ただ史料や書籍を読んでいると、弾薬庫のみならず、弾丸庫、火薬庫、弾薬本庫、弾丸本庫、火薬本庫、弾薬支庫、火薬支庫、弾廠、砲側弾薬庫(砲側庫)、弾室などなど、様々なワードが頻出して訳わからなくなります。

そこで、軍隊で使われる用語を分かりやすく解説している明治38年発行の『海軍解説』から関連するワードの箇所を引用します。

 

「弾薬庫は、弾薬本庫、火薬支庫、弾廠、砲側庫、弾室等に分かれ、弾薬本庫は、全要塞の為め、一個若しくは数個を設け、要塞内危険なく、且つ交通便利なる地に置き、其容積は、所属堡塁、砲台の全弾薬を収容するに足らしむ。火薬支庫は並に弾廠は、各堡塁、砲台内或は其附近適当の地に設け、弾廠には填薬所を附属す。砲側庫は、通常横墻下、其他砲座に接近する堆土内に構築し、共に所要の弾薬を収容するなり。次に弾室とは、内斜面乃至横墻の脇側に設くる、弾丸の格納所を云う。」

 

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と言うわけで、要塞内の砲台で使用する弾薬を一元管理するのが弾薬本庫(弾丸本庫、火薬本庫)ですが、対馬要塞では5つの弾薬本庫が明治期に構築されました。

 

日露戦争終戦後の明治39年(1906)頃の対馬要塞地図を掲載します。

 

浅茅湾と三浦湾防御の砲台が広範囲に亘って配置されていますが、地図を見ると各地区の砲台に附属して弾薬本庫が置かれているのが分かります。なお遺構を確認したのは面天奈だけですので、その他の場所は推定で記載しました。

 

最初に設けられた弾薬本庫は面天奈弾薬本庫です。対馬要塞の砲台築城が始まった明治20年(1887)に起工されました。

その後明治30年代前半から「對馬第2期防御計画」に基づき砲台の増設工事が始まりましたが、合わせて弾薬本庫も構築され、明治35年(1902)に緒方村畑原、明治37年(1904)に蔵ノ内の3か所が竣工しました。

さらに、明治37年2月に開戦した日露戦争時には浅茅湾口の尾崎半島に3砲台の構築が開始されました。これらは終戦後に完成しましたが、附属する弾薬本庫は明治39年に尾崎村に設置されました。

 

弾薬本庫に関する当時の史料は非常に少ないのですが、以下簡単に纏めました。

 

面天奈弾薬本庫

・起工:明治20年(1887)7月11日

・竣工:明治21年(1888)3月31日

・竣工時の施設:火薬本庫1、弾丸本庫1、繋船場1

・その他:糧食本庫2を附属(明治28年竣工、明治36年火薬本庫に改築)

 

緒方村弾丸本庫

・起工:明治34年(1901)10月10日

・竣工:明治35年(1902)1月9日

・竣工時の施設:弾丸本庫1

・その他:糧食支庫1を附属

 

畑原弾薬本庫

・起工:明治34年(1901)11月27日

・竣工:明治35年(1902)7月22日

・竣工時の施設:火薬本庫1、弾丸本庫1、火具庫1、装薬調整所/炸薬填実所1

 

蔵ノ内弾丸本庫

・起工:明治34年(1901)9月、建築伺いの稟議

・竣工:明治37年(1904)3月15日、竣工書進達

・竣工時の施設:おそらく弾丸本庫1

 

尾崎村弾丸本庫

・起工:明治38年(1905)7月17日

・竣工:明治39年(1906)1月9日

・竣工時の施設:弾丸本庫1、繋船場1

・その他:糧食本庫1を附属

 

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ここからは遺構を確認した面天奈弾薬本庫を取り上げます。

 

先ほども書いた通り、対馬要塞で砲台の建設が始まった明治20年(1887)に起工されましたが、他の弾薬本庫に比べて規模が大きく、改築や増設を行いながら昭和20年(1945)8月の大東亜戦争終戦まで機能しました。

昭和期における史料が絶望的に少ないのですが、竣工以降の経過を記していきます。

 

・明治21年(1888):竣工

 →竣工時:火薬本庫1(21.2m×11.2m)、弾丸本庫1(20.9m×8.2m)

・明治31年(1898):砲廠5、兵器庫1を増設、監守衛舎模様替え、厠圊新築

・明治34年(1901):消防具格納所を増設

・明治35年(1902):装炸薬火工場1、小修理所1を増設、火具庫改築

・明治37年(1903):糧食本庫を火薬本庫に改築

(既存の火薬本庫は木造で火薬保存に十分ではないため、明治28年竣工の土蔵造糧食本庫2棟を火薬本庫に改築するとともに、既存の火薬本庫は糧食本庫に応用する。さらに鶏知附近に糧食本庫1を新設する。)

・明治37年(1904):火具庫改築、砲廠を小銃弾薬格納庫にして避雷針取付

・大正6年(1917):買収済みの民有地を編入して弾薬本庫の敷地を拡張

・大正10年(1921):土塁を新設

・大正13年(1924):監守衛舎を移築

・昭和10年(1935):熔填作業場、熔融場、弾丸加温場を新設

・昭和11年(1936):職員職工宿泊所を新設

・昭和12年(1937):警備用弾丸庫を新設

 

ところで、面天奈の読み方は「めんてんな」が主流ですが、昔の史料では「めんてな」「めてんな」「おもてな」と言った具合に様々です。

 

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1947年の空中写真を掲載します。

 

黄色で追記したのが確認した遺構ですので見て行きます。

 

まずは西北側にある門柱です。

 

内側から見ています。

 

蝶番の痕跡。

 

門柱の奥は削平地になっていますが建物基礎は確認できませんでした。さらに奥に行ってみると、枯れ沢沿いに貯水施設を見つけました。

 

方形の3槽と円形の1槽が確認できます。砲台の貯水所で見かける構造に似ていますので、空撮の追記には濾過水槽と書きました。

 

道路に戻り門柱の前から繋船場護岸を見ています。だいぶ崩れているように見えるので積み替え・積み増しされているかも。

 

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道路沿いの削平地に建物基礎Aがあります。

 

隣接して厠圊(便所)があります。

 

厠圊の側から建物基礎Aを見ています。

 

空撮ではこの奥に建物が写っていますが、斜面になっていたので行きませんでした。

 

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東側にもう一つ削平地があり廃屋が建っています。上屋は戦後物ですが基礎部分は当時の物を使っている可能性があるので、建物基礎Bとしました。

 

戦後に纏められた対馬海軍警備隊の引渡目録には、この場所に機銃弾を中心に弾薬を置いていたことが書かれています。置いていたのは警備隊の倉庫だったのか、それとも陸軍の倉庫を間借りしていたのでしょうか。

 

「昭和20年9月30日 引渡目録 対馬警備隊」から引用・抜粋したのがこちら。廃屋の位置に「警備隊 弾薬格納中」と書かれています。

 

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道路沿いにコンクリート柱Aが2本立っています。当時は左側に写る家屋の奥に建物が並んでいました。

 

当時物かどうか判断つきませんが怪しいコンクリート建物があります。

 

いちおコイツと似てますので...。(豊砲台補助施設)

 

建物基礎Cです。

 

空撮を見ると当時はこの後方に建物が並んでいたようですが、戦後に耕作地となったため建物基礎は残っていませんでした。確認できたのは、井戸、排水溝、地形そして大量の瓦礫だけです。

 

井戸

 

地形。

 

排水溝

 

大量の瓦礫。

 

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北側の奥に進むとコンクリート柱Bが立っています。

 

変わった形の貯水槽があります。

 

向かって左側の槽です。破損部分から推察するに、元々レンガ積みだったところを後にコンクリートを上塗りしたように見えます。

 

右側の槽です。防火水槽として使われたのかもしれませんね。

 

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貯水槽から東側に行くと大きく掘り込まれた削平地があります。空撮では横長の建物が写っているように見えますが、建物基礎は確認できませんでした。

 

貯水槽の北側にも同様の地形が残っていますが、こちらには建物のコンクリート床が残っています。空撮には建物基礎Dと書きました。

 

空撮に写っている通り横長の建物ですが、おそらく弾薬本庫か火薬本庫だったと思われます。

 

建物の奥を見ています。今は崩れていますが内側は石積みされていたようです。

 

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ところで弾薬本庫(もしくは火薬本庫、弾丸本庫)は、明治期はレンガ造り、昭和期はコンクリート造りでした。この場所にはレンガの瓦礫がほとんど見られませんので、おそらく昭和期に建て替えられてコンクリート造りの建物になったと思われます。

 

参考に芸予要塞来島火薬本庫を掲載します。

 

内部です。

 

この建物は4間×10間(約7.3m×約18.2m)ですが、面天奈の竣工当初の火薬本庫は6間1尺×11間4尺(約11.2m×約21.2m)でしたので、芸予要塞の物より一回り大きいことになりです。

 

続いて昭和期の弾薬庫です。広島県の厳島に残っています。弾火薬本庫ではないですが、昭和の物はこんな感じだったと言うことで。

 

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以上で対馬要塞に置かれた弾薬本庫の紹介は終わりですが、今回の記事を書くために史料を検索していたところ、作家・大西巨人に行き着きました。彼は大東亜戦争時に陸軍軍人として対馬要塞重砲兵聯隊に入隊しており、戦後に書かれた彼の代表作「神聖喜劇」では対馬の兵営生活とともに面天奈の火薬庫も登場します。

2012年に発行された『二松学舎大学人文論叢 第89輯』には大西のインタビュー記事が掲載されており、面天奈に関してのやり取りも話されていましたが、本人はあまりよく覚えていないらしく有益な情報は書かれていませんでした。

「神聖喜劇」は未読ですが、調べてみたら地元の図書館に在架していましたので、ぜひ借りて読んでみたいと思います。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第二巻 對馬要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「対馬砲台あるき放題~対馬要塞まるわかりガイドブック」(対馬観光物産協会)

「対馬要塞物語2」(対馬要塞物語編集委員会)

「国土地理院地図(電子国土web)」を加工して使用

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

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「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

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「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

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「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)