その3では時計回りに圍壁と外壕を巡ります。

 

下関の最北に置かれた龍司山堡塁は、敵に攻められた際に持久戦を展開できるよう砦の形を為しています。独立閉鎖堡に分類される形状ですが、堡塁全周に亘って高い位置に圍壁(歩兵壁)を構築し、北東側(Jの箇所)には深い外壕が掘られています。

現在の圍壁は破壊されている箇所も多いですが2/3の圍壁は現存しており、外壕、高石垣、両翼の側防穹窖も確認することができます。なお側防穹窖は「その4」で詳しく紹介します。

 

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堡塁に上がる軍道から見取図Gに残る圍壁を見上げています。

 

圍壁を外側から見ています。石を積んでその上に無筋コンクリートを打って基礎台座とし、その上にレンガ積みモルタル塗りの壁を構築しているようですが...。

 

こちらの圍壁にはレンガ積みモルタル塗りの壁が見られません。

 

どうやら壁は粘土体の土壁で、その上にレンガを被覆してモルタルを塗って仕上げているようです。こちらの壁にはレンガが見られませんが、基礎部にレンガの痕跡が確認できます。

 

見難いですが圍壁の内側は兵員が行き来できる通路になっています。

 

見取図Fの場所です。砲座に上がる道筋が残っています。

 

上がった先はこんな感じ。砲座があった場所は広場になっています。

 

見取図Fの位置に地下への石段があります。おそらく側防穹窖の匣室に入る石段だったと推測していますが、この件は次回考察します。

 

見取図Bの位置に左翼側防穹窖があります。

 

その2でも書きましたが、軍道を上がって来る敵を掃射する銃眼が1か所(もしくは2か所)、西側の斜面から攻めてくる敵に対しては3か所の銃眼が設けられています。

 

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見取図Hの西側凸角から北東に伸びる外壕(舗装路)を見ています。

 

外壕から堡塁内側を見上げると圍壁が残っています。

 

外壕は北端で右に曲がります。舗装路はさらに北に伸びて電波塔に繋がっていますが、戦後に×の箇所の土塁を壊して道を敷いたようです。

 

右に曲がった先にレンガ壁の瓦礫(矢印)が残っています。ここにも側防穹窖が設けられていた可能性がありますが、この件の考察はその4にて。

 

圍壁は矢印の箇所で折れ曲がって東に向けて伸びています。

 

見取図“I”は外壕の北端です。

その手前の圍壁と土塁は遊歩道を通すため壊されています。

 

北側の土塁の上から見るとこんな感じ。

 

Iの外壕側にレンガ壁が確認できます。

 

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引き続き時計回りで12時から3時に向けて下って行きます。

 

見取図"J"の外壕です。深く掘られているのが分かりますね。

 

これまで見てきた7時から12時に至る圍壁は破壊が激しかったですが、これから見に行く12時から5時の圍壁はなかなか状態良く残っています。

 

基礎部は無筋コンクリート、壁はレンガ積みモルタル塗りです。

 

圍壁上部もモルタル塗りですが、外側に向けて傾斜が設けられています。

 

圍壁の内側通路です。敵が迫った時はココで兵員が銃を構える姿が目に浮かびます。

 

被覆のレンガが剥がれているので構造が分かります。

 

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明治35年4月の下関要塞検閲報告に龍司山堡塁の圍壁の景況が書かれていますので引用します。

 

「龍司山堡塁の圍壁は殆ど全部剥裂の景況を呈す。此圍壁は其素質(内部粘土体と外皮モルタール)の関係上剥裂を来たすものあるを以て、今後幾回修理を施すも到底持久の効なきものと認む」

 

「明治34年1月以降の修繕工事に関する景況:龍司山堡塁 周囲歩兵壁 内部粘土とモルタール塗との膠着十分とならず各所亀裂剥脱す」

 

その後明治36年2月の下関要塞検閲報告には以下のように書かれています。

 

「龍司山堡塁の圍壁は修繕を完結せり」

 

史料から読み取ると、粘土体とモルタルとの相性は悪かったようです。その後修繕していますが、現存する圍壁から察するに、粘土体の被覆としてレンガをかましてモルタルを塗ったのかもしれませんね。

 

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それでは外壕に戻って...。

谷側の土塁が低くなったと思ったら、正面に石垣が見えてきました。

 

見事な高石垣です(・∀・) 

 

 

4mほどの高さがあります。

 

石垣への切替わり部分を見ています。なお上に乗る圍壁の造りは同じです。

 

排水の土管かな。

 

見取図“J”の場所ですが、石垣の前面は平坦地となっています。

 

平坦地の谷側を覗き込むと急な斜面となっています。

 

敵兵は急斜面を駆け上がってきて平坦地に立った瞬間に石垣上の圍壁から射撃されてお陀仏...と言うわけですね。

 

地上4mの圍壁側から射撃する兵員の視線はこんな感じです。

 

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堡塁東側凸角は石垣からレンガに切替わります。これまた見事です!

 

レンガ壁の下に排水管が設けられています。

 

右翼凸角に側防穹窖の銃眼が南向きに開口しています。

 

側防穹窖のコンクリート掩蓋や圍壁は破壊されていますが...。

 

レンガから石垣に変わって圍壁は続いています。

 

圍壁内の通路に側防穹窖に入る石段と思われる箇所があります。

 

通路は南に向けて伸びていますが、少し進むと行き止りました。これより先の圍壁は破壊されています。

 

破壊された圍壁の下方に石垣が残っていました。

 

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行き止まりましたので、引き返して赤点線の所を見に行きます。

 

右翼側防穹窖北側の圍壁通路内に集水桝と二手に分かれる側溝があります。

 

側溝を辿って北西に上がる道を進みます。

 

見取図“L”の平坦地に上がりました。谷側に石積みが1段設けられています。

 

見取図“L”の平坦地から砲座面に上がる道がありますが側溝も確認できます。

 

砲座が置かれた平坦地に上がると、その縁にコンクリートの瓦礫が残っていました。

 

以上で圍壁と外壕巡りはお終いです。次回は側防穹窖を取り上げます。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「日本の大砲」(竹内昭, 佐山二郎 共著、出版協同社)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」

「竜司山堡塁砲座改築等の件」(Ref No.C02030462300 アジア歴史史料センター)

「砲兵第1工兵方面より 新司山保塁備砲変更の件」(Ref No.C03023050600 アジア歴史史料センター)

「工兵第3方面より 就司山堡塁建築の件」(Ref No.C03023080800 アジア歴史史料センター)

「第12師団 下関要塞検閲報告の件」(Ref No.C03022890500 アジア歴史史料センター)

「元防禦営造物補助建物管轄換の件」(Ref No.C01002118400 アジア歴史史料センター)

「9月10日 築城部本部 竜司山兵舎建築の件」(Ref No.C10071286200 アジア歴史史料センター)

「下関要塞司令官の検閲報告の件」(Ref No.C02030339700 アジア歴史史料センター)

「7月15日 築城部本部 下ノ関要塞龍司山兵舎等建築竣工図書進達」(Ref No.C10071521700 アジア歴史史料センター)

「海岸射撃具据付工事及火砲撤去工事完了の件」(Ref No.C01007469500 アジア歴史史料センター)

「紀淡海峡及下関防禦計画中改正の件」(Ref No.C03023051400 アジア歴史史料センター)