その2では堡塁内に入って掩蔽部を見に行きます。

 

見取図Aの場所ですが、地形はそのまま残っています。建物基礎は確認できませんしたが、瓦や石材などが転がっていました。

 

見取図Bは堡塁西側の凸角前面となりますが、左翼側防穹窖の銃眼から機関砲がこちらを狙っています(゚Д゚;)

 

軍道を上がって来る敵を掃射する銃眼が1か所(もしくは2か所)、西側の斜面を駆け上がって来る敵に対しては3か所の銃眼が設けられています。なお側防穹窖については次回取り上げます。

 

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見取図Cは堡塁入口の前庭にあたる位置(咽喉部)ですが、戦後に設けられたパゴダが鎮座しています。

 

パゴダの後方に土塁が設けられて堡塁入口があったはずですが、公園整備により地形は残っていません。写真に描き込むとこんな感じかな。

 

地下に構築された掩蔽部が7つ残っています。

 

説明書き。

 

写真には6つの掩蔽部しか写っていませんが、最右翼に1個埋もれています。

 

本来あったはずの顔が崩されています(・_・;)

 

こんな顔が並んでいたはずなのに...。(芸予要塞来島中部堡塁より)

 

左から2つ目に井戸があります。この真下に貯水槽があったのでしょう。どうやら今でも現役のようです。

 

サイズ・形状ともよく見かける掩蔽部です。

 

左の2個は独立、その他5個は後方の扉で繋がっています。

 

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表から見えなかった最右翼の掩蔽部に入る扉があります。

 

中に入ると...前方部分が埋没しています。

 

外から見ると黄線の箇所となります。公園整備の時に埋められたと思われます。

 

掩蔽部前の通路も塞がれているので最右翼の掩蔽部前面に行くことができません。

 

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ここで疑問が...。

塞がれている壁が上部に見えるブロックと同じ物なら戦後の仕業だと納得できるのですが、積まれているのはレンガ積みモルタル塗りの壁...つまり当時物なんですよね。

 

矢印の部分に雨樋受けの石材も見られますので、この壁は堡塁が機能していた当時からあったと思われます。

 

他の箇所を見ると雨樋は掩蔽部に並列配置されています。

 

つまり最右翼の掩蔽部は、後方の扉では繋がっているものの他の6つの掩蔽部とは遮られて配置されていたことになります。

 

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それでは内部に戻って...。

天井に通気口があります。なお貯水槽の掩蔽部には井戸の真上に通気口がありましたが、他の5つの掩蔽部には設けられていませんでした。

 

埋没している前方部分をよく見てみます。

 

破壊されている壁は扉と窓がある顔部分だと思いますが、右奥を見るともう一つ壁が存在しています。ただ、奥の左側には壁が無く、破壊された痕跡も見られません。

 

奥の壁は矢印の所で切れているように見えるので、開口する前面の1/3だけ設けられていたのでしょうか?

 

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さて、この掩蔽部は何でしょうか?

土砂が流入している側が掩蔽部の前面だとすると、扉と窓がある顔(破壊されている壁)が掩蔽部の開口部から奥まって構築されていることになりますが、このような形状は他地域の砲台で砲側庫に見られる構造です。

 

芸予要塞大久野島北部砲台の砲側庫です。顔がだいぶ奥に構築されています。

 

顔の位置から開口部を見る。

 

龍司山の掩蔽部と酷似しているように見えますが、大久野島の方には開口部にもう1つの壁は存在しません。このような1/3だけ構築された壁は大久野島だけではなく他でも見られません。爆風除けとして入口の半分だけ壁を作る例は弾薬庫で見られますのでその用途だったのでしょうか?土砂流入のため壁を近くで確認していないのでなんとも言えませんが...。

 

さて龍司山の最右翼掩蔽部の用途ですが、他の6つの掩蔽部が兵員室、材料庫、貯水所として使われたのに対し、弾火薬を保管する弾薬支庫だったと推測しておきます。図解するとこんな感じだったと言うことで...。

 

 

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掩蔽部上の見取図Dの場所は山頂広場として整備されています。

 

広場からの景色です。関門海峡を挟んで門司が見えます。

 

カメラを右に振ると下関市の彦島や小倉市街地が見えます。

 

4年前に撮った看板では景色の配置が分かりましたが...。

 

今年見たら風化していました...(-_-;)

 

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山頂広場から見取図Eを見ています。この広場には加農砲や臼砲の砲座、横墻と砲側庫がありましたが、完全に整地されてしまい何も残っていません。

 

こんな山奥に広場作る意味よ...と愚痴ったところで「その2」を終わります。

 

「その3」では堡塁周囲の外壕と圍壁をぐるり巡ります。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「日本の大砲」(竹内昭, 佐山二郎 共著、出版協同社)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」

「竜司山堡塁砲座改築等の件」(Ref No.C02030462300 アジア歴史史料センター)

「砲兵第1工兵方面より 新司山保塁備砲変更の件」(Ref No.C03023050600 アジア歴史史料センター)

「工兵第3方面より 就司山堡塁建築の件」(Ref No.C03023080800 アジア歴史史料センター)

「第12師団 下関要塞検閲報告の件」(Ref No.C03022890500 アジア歴史史料センター)

「元防禦営造物補助建物管轄換の件」(Ref No.C01002118400 アジア歴史史料センター)

「9月10日 築城部本部 竜司山兵舎建築の件」(Ref No.C10071286200 アジア歴史史料センター)

「下関要塞司令官の検閲報告の件」(Ref No.C02030339700 アジア歴史史料センター)

「7月15日 築城部本部 下ノ関要塞龍司山兵舎等建築竣工図書進達」(Ref No.C10071521700 アジア歴史史料センター)

「海岸射撃具据付工事及火砲撤去工事完了の件」(Ref No.C01007469500 アジア歴史史料センター)

「紀淡海峡及下関防禦計画中改正の件」(Ref No.C03023051400 アジア歴史史料センター)