その3では第5砲座について考察します。

 

見取図から抜粋します。

 

笹尾山砲台の砲列は戦後の開墾・道路建設により山が削られたため当時の地形の把握が困難ですが、第四号・第五号砲側庫ならび第5砲座の周辺はかろうじて地形が残っています。

 

昭和50年(1975)の空中写真に色々書き込んでみました。

 

その3で説明しましたが、第四号と第五号砲側庫の間に2本の道路が建設されて左翼墻が削られたことで第五号砲側庫の外壁が露出しました。

砲座については、二十八糎榴弾砲の砲座は横墻・胸墻を配して深く窪んでいるのが特徴ですが、笹尾山砲台の5つの砲座においても同様だったと思われます。第1~4砲座は確認できませんが第5砲座の場所は窪みの地形が残っていますので、今回考察しようと思った次第です。

 

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第四号砲側庫の右側には第4砲座がありましたが、砲側庫右横は土砂が崩れて壁を隠しています。

 

横墻に上がって第4砲座があった場所を見下ろしていますが、完全に整地されてしまって砲座の形状は確認できません。ってかヤブよ...。

 

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次に第四号砲側庫左横の第5砲座側を見てみます。こちらは土砂の崩れがなく壁がはっきりと確認できます。

 

第5砲座後方を見ていますが、道路建設で地形が崩されています。砲床は一段高い位置にあることから、おそらくスロープで昇降する形を取っていたと思われます。

 

削られた面にコンクリート瓦礫が挟まっていますが、これがスロープの床面だったかもしれません。

 

スロープ(仮)の斜面を上がると平坦面がありますが、おそらく砲床かと思われます。なお『日本築城史』では「砲座の中心間隔は30メートル」と書かれています。

 

砲床(仮)に上がって西南側を見ています。砲座前面には胸墻の盛土が為されているのが分かります。

 

胸墻の上から砲床(仮)の平坦部分を見ています。それほど高さはありませんが、窪んでいるのが分かるかと。

 

凝視していると二十八糎榴弾砲の円形砲床が浮かび上がってきます。(そのように思いたいからそう見えるだけ^^;

 

こんなイメージです。(由良要塞生石山第二砲台の砲座)

 

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二十八糎榴弾砲のレプリカが愛媛県今治市小島に展示されています。旋盤を据え付けた円形の砲床は遺構としてよく見かけますね。

 

二十八糎榴は1砲座に2門配置されるのが基本でした。笹尾山砲台でも同様で、1砲座2門で合計5砲座が横一線に並んでいました。

砲座の形状は、先ほども書いた通り横墻・胸墻を配して窪んでいるのが特徴です。榴弾砲は上方に高く撃ち上げる曲射砲でしたので、射撃は前が壁になっていても大丈夫と言うわけですね。

 

形状がよく把握できる由良要塞田倉崎堡塁の砲座です。笹尾山の砲座はこれほど深くなかった(胸墻が高くなかった)と思いますが、イメージは伝わるかと。

 

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ここでアジ歴の史料を紐解きます。

明治37年(1904)2月に勃発した日露戦争時において、各地の要塞に配備されていた二十八糎榴弾砲の移設に関する史料が残っていますが、そこには以下のように書かれています。

 

明治37年8月10日撤去命令:旅順要塞攻撃に18門を転用

・東京湾要塞箱崎高砲台 8門

・東京湾要塞米ヶ浜砲台 6門

・芸予要塞大久野島中部堡塁 2門

・芸予要塞来島中部堡塁 2門

明治37年10月10日撤去命令:対馬要塞防御用

下関要塞笹尾山砲台 6門

明治37年11月18日撤去命令:膨湖島、大連、鎮海湾要塞防御用

・東京湾要塞第一海堡 6門

・東京湾要塞富津元洲堡塁 2門

・芸予要塞大久野島中部堡塁 4門

・芸予要塞来島中部堡塁 4門

下関要塞笹尾山砲台 2門

・下関要塞老ノ山砲台 4門

・下関要塞金比羅山堡塁 2門

 

旅順要塞の攻囲戦において二十八糎榴弾砲を大陸に移送した話は有名ですが、迫り来るバルチック艦隊に対処するため、対馬、膨湖島(台湾)、大連(中国)、鎮海湾(韓国)の各要塞に対しても本土から移送したようです。そして笹尾山砲台では10門中8門の撤去命令が下っていますが、その後の史料では確認が取れていませんので、実際のところ移送が実施されたかどうかは定かではありません。

 

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それでは第5砲座の考察に戻ります。

 

胸墻に石段が設けられているのを見つけました。

 

石段と砲座左側。

 

左翼墻側にコンクリートの瓦礫があります。砲床かな?

 

西南側から砲床(仮)を見下ろしています。

 

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ところで、砲座は胸墻・横墻側に石積みやレンガ積みを施して砲床を囲んでいました。先ほど載せた田倉崎堡塁の砲座で見られる感じです。複数の凹み(砲弾を置く弾室)も設けられていますが、今まで考察してきた第5砲座にはこれらの構造物が残っていません。最初から存在しなかったとは考えられませんので、戦後に資材として利用するために剥がされたのではないかと推測します。

なお史料を見ると、笹尾山砲台には未だ弾室の設備がないので増築する旨の伺書が明治33年1月に出されています。

 

砲床(仮)に転がる瓦礫。もしかしたら胸墻の一部かもしれませんね。

 

以上、その3を終了します。

その4では観測所と補助施設を見て行きます。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「日本の大砲」(竹内昭, 佐山二郎 共著、出版協同社)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」

「下の関海峡防禦笹尾砲台監視路及弾室増築の件」(Ref No.C02030409600 アジア歴史史料センター)

「笠尾山砲台観測所設置の件」(Ref No.C02030225300 アジア歴史史料センター)

「下関要塞除籍砲台補助建設物利用の件」(Ref No.C03011066100. アジア歴史史料センター)

「基隆要塞大武崙堡塁一部改築竣功図書進達の件」(Ref No.C02030499400 アジア歴史史料センター)

「建築に関する書類進達下ノ関笹尾4外砲具庫精密予算書」(Ref No.C10062204600. アジア歴史史料センター)

「竣工図書類進達(笹尾山砲台付属竣工記事外)」(Ref No.C10060484400 アジア歴史史料センター)

「9月10日 築城部本部 笹尾山兵舎建築の件」(Ref No.C10071286300 アジア歴史史料センター)

「28センチ溜弾砲6門を更に3軍に増加の必要の件」(Ref No.C06040495900 アジア歴史史料センター)

「甲表 37 8年戦役間要塞備付大口径海岸砲移動一覧」(Ref No.C06040176300 アジア歴史史料センター)

「工より笹尾山砲台監守衛舎の件」(Ref No.C07050494700 アジア歴史史料センター)

「工2より 火之山外2砲台監守官舎新築の件」(Ref No.C07050333100 アジア歴史史料センター)

「金比羅山堡壘観測所移築の件」(Ref No.C03022413900 アジア歴史史料センター)