大東亜戦争末期、北九州市小倉南区曽根に陸軍の飛行場が建設されました。

 

場所はこちら。

 

大東亜戦争中、北九州・関門地区の防空は第19飛行団(のち第12飛行師団に改編)が担っていましたが、航空基地増強のため、水田79ha余、塩田64haを買収して、昭和18年(1943)4月より曽根飛行場の建設が開始されました。

昭和20年(1945)2月から第70独立整備隊、4月には第80飛行場中隊が学生などの勤労奉仕を得て鋭意建設に務めたものの、終戦までに完成しませんでした。(昭和19年9月に建設したとの資料もあり)

 

戦後は米軍の接収解除後は小倉空港となり、昭和31年から民間空港としての共用が開始されました。昭和48年(1973)には北九州空港と改称して運用されましたが、平成18年(2006)に新北九州空港への移転に伴い廃止されました。

現在跡地は企業の倉庫などが立ち並んでおり空港があった痕跡は確認できませんので、曽根飛行場の遺構も残っていません。

 

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1948年の空撮です。

 

終戦後に纏められた曽根飛行場の記録は以下の通りです。

 

・滑走地区:1750m×100m 埋立転圧

・滑走路:1500m×60m マカダム10㎝舗装(※マカダム舗装とは砕石を敷き詰めてローラーなどで締固める舗装方法)

・誘導路:1200m×20m

・宿営:木造平屋5棟、事務室1棟、空中勤務者控所3棟(400名収容)

・風向:東西 但し朝夕霧のかかることあり

・残存機:三式戦「飛燕」1機、九九式襲撃機1機、九五式一型練習機24機、零戦1機、海軍機3機、合計30機

・その他:燃料、爆弾、機銃弾各種

 

記録を見る限りは完成していたように思えます。ただ防空部隊としての運用はされておらず、練習機、いわゆる赤とんぼが多いことから、本土決戦が始まれば特攻基地となったでしょうね。

なお記録にも書かれている通り、飛行場の場所は三方を山に囲まれていて霧による運航障害が発生しやすい環境にありました。この問題は戦後に民間空港となった後も同様で、旧・北九州空港の欠航率は非常に高かったようです。

 

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と言うことで、遺構は何もありませんし跡地の写真も近くで撮影していませんので、掲載するのは2枚だけです。

 

高蔵山堡塁手前の軍道より撮影。

 

ヒキで見ると現在の北九州空港も見えます。

 

飛行場の先には間島と言う無人島が浮いていますが、この島には照空陣地が設けられていました。以前レポートしましたので参考にどうぞ。

 
以上、曽根陸軍飛行場でした。
 

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[参考資料]

・陸空-本土防空-38:陸軍航空基地資料第1 本州.九州 昭19.10刊行(防衛研究所 戦史史料・戦史叢書検索)

・陸空-本土防空-11:陸軍飛行場要覧(本土)(防衛研究所 戦史史料・戦史叢書検索)

・陸空-本土周辺-120:飛行場記録 小月.防府.芦屋.曽根.福岡.目達原.大刀洗南.大刀洗北.雁ノ巣.豊後南.豊後北.築後(防衛研究所 戦史史料・戦史叢書検索)

・陸空-本土周辺-103_2:飛行場要図綴 其の1(防衛研究所 戦史史料・戦史叢書検索)

・戦史叢書第019巻 本土防空作戦(防衛研究所 戦史史料・戦史叢書検索)

・曽根飛行場記録(防衛研究所 戦史史料・戦史叢書検索)

・曽根飛行場記録及兵器弾薬集積現況表 昭和20年9月10日(Ref No.C15011098500 アジア歴史資料センター)

・北九州市史 近代・現代 行政・社会(国立国会図書館デジタルコレクション)

・わが町の歴史・小倉 (わが町の歴史シリーズ)(国立国会図書館デジタルコレクション)

・小倉市誌 補遺(国立国会図書館デジタルコレクション)

・航空振興 7(2)(23)(国立国会図書館デジタルコレクション)

・国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス