その3では砲座周辺を紹介しますが、まずは配備された高射砲から説明します。

 

風師山には防空第23連隊(のち高射第133連隊)の第1大隊第1中隊が駐屯し、七糎高射砲(七高)6門をもって大東亜戦争開戦時より防空の任に当たっていました。

 

配備された七高は八八式七糎野戦高射砲だと思われます。

この火砲は昭和3年(1928)に制式制定された陸軍の主力高射砲で、戦争末期には射高不足により高高度で飛来するB29に対抗するのが難しかったようですが、終戦まで2000門以上が生産されました。

 

 

遊就館に展示の八八七高の現物。

 

ところで『高射戦史』には西部高射砲集団(のち高射第四師団)の編成表が掲載されており、風師山を見ると昭和19年9月時点で“七高×六”と書かれていますが、昭和20年5月時点では“特七高×六”と書き改められています。

ってか特ってなによ?と思って調べたところ、『日本の大砲』および『日本陸軍の火砲 高射砲』に“特”のことが以下のように書かれていました。

 

「平高射から俯角射撃まで可能にする改修を施したものが八八式七糎野戦高射砲(特)と呼ばれるもので、昭和9年6月に制式制定されている。」

 

「本砲を海岸要塞固定砲として改修することになり、架匡以上を固定砲床上にボルトで固定した火砲を製作した。」

 

「昭和17年8月、東部、中部、西部、北部、朝鮮、台湾の各軍要地防空部隊の高射砲の中で、七糎高射砲は“八八式野戦高射砲(特)要地用”に逐次交換することになった。」

 

※(特)…特を〇で囲ったマル特

 

つまり要地用に固定配置したのがマル特ってことですね。

ではこれで解決...としたいところですが、ではなぜ昭和20年5月の編成表で“特七高”と書き改められたのでしょう?換装ならこれ以前に終わっていそうなものです。

 

若干疑問に思ったので調べてみたところ、四式七糎半高射砲がヒットしました。

この火砲は戦時中の昭和19年に開発された高射砲で、八八七高の能力不足を補うべく鹵獲したスウェーデン・ボフォース社の75㎜野戦高射砲をデッドコピーして作られました。戦争末期のため70門ほどしか作られなかったようですが、こちらにも(特)が存在しており、取説にはこう書かれています。

 

「本砲は四式七糎半高射砲の架匡以上を要地又は野戦に於て之を砲床上に設置し対空の火制を主目的とする火砲にして…(以下省略)」

 

八八七高のマル特より新火砲の四七高に換装したと思った方が何だかしっくりきます。『日本陸軍の火砲 高射砲』にも、「四式七糎半高射砲は東京の高射砲第一師団に八八式七糎野戦高射砲に換えて20門配備したほか、北九州の高射部隊にも配備した。」と書かれていますので尚更です。

ただ同書には、終戦時に北九州で集積した四七高の写真が載っているのですが、そこにはタイヤを伴う脚付きの状態が写っていますので、仮に四七高が配備されていたとしても、マル特ではなく脚付き通常版だったかもしれません。

 

参考までにボフォース社の75㎜。(wikipediaより引用)

 

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それでは砲座のあった場所を見に行きます。

 

見取図です。

 

1948年の空中写真で砲座の場所を拡大したのがこちら。

 

見取図では戦後の空中写真を参考に砲座推定位置として6つの円を描きました。右から4つは戦後の電波塔建設と大ヤブにて確認が取れませんでしたが、左2つの場所は地形が残っており、藪に突入してみると窪地が確認されました。

 

まっすぐ伸びる道は砲座後方に当たりますが、左手のヤブに地形が残っています。

 

最左翼にあたる位置に石積みが見られます。

 

石積みから突入すると深く掘られた窪地が現れました。(以下見難い写真が続きます)

 

若干角度を変えて見る。

 

下りてみた。深さが分かるかと。

 

この窪地を最初に見た時は砲座が残っていたと歓喜しましたが、この窪地は円形ではなく横長に窪んでいました。(・_・;)アレ?

 

横長窪地の右側(東側)に建物跡がありました。

 

近づいてみた。

 

建物上にある痕跡。

 

この建物は砲座推定位置に設けられています。戦後の空中写真ではこの場所に砲座があったことは間違いないと思われますので、これは戦後物の可能性が高いです。

 

建物跡のすぐ向こうは電波塔と空き地になっています。

 

電波塔の横にコンクリート台座がありますが、これも戦後物でしょうね。

 

右翼側の3砲座の場所は激ヤブなのですが、円形掩体のように窪んだ中に六角形のコンクリート台座が残っています。

 

掩体を外側から。

 

六角形のコンクリート台座です。

 

角度を変えて。ボルトが1本だけ残っています。

 

幅は65㎝ほどですが、サイズ・形状ともにその2で見た六角形体のコンクリート台座と酷似しています。

 

そっくりなので、この2つは同じ機器が設置された台座かもしれませんね。両者とも掩体の中に設けられていますが、戦後にわざわざそのような処置を取るとも思えませんので、高射砲時代の物だと推察します。

ただ、七高の砲床とは形状が異なりますので高射砲の据付台座ではないですね。つまり用途は不明と言うことで。

 

参考までに、石峯山に残る八八七高の砲床と弾薬置場を掲載しておきます。

 

六角形台座の近くに方形の台座もありましたが、こちらはボルトが新しく感じますので戦後物かと思われます。

 

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最右翼の砲座推定位置周辺を見てみます。赤点線の部分です。

 

砲座推定位置の脇に残る方形コンクリート。イバラのため近づいていません。

 

瓦礫が転がっているので列挙します。まずは環っか。

 

鉄筒とコンクリート瓦礫。

 

鉄筒の上が最右翼の砲座推定位置です。

 

転がっている碍子は描かれているロゴから香蘭社製と分かります。数字の36は1936年と思いたいところですが、おそらく昭和36年でしょうね。

 

新旧の瓦礫が転がっているので判別できずに困ったものです(^^;

ちなみに最右翼の砲座側には後方の施設群に昇降する石段が2か所に設けられていますが、その紹介は次回とします。

 

以上、これにてその3はお終いです。

 

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[参考資料]

「戦史叢書019巻 本土防空作戦」(防衛研究所 戦史史料・戦史叢書検索)

「戦史叢書057巻 本土決戦準備<2>九州の防衛」(防衛研究所 戦史史料・戦史叢書検索)

「第56軍国土決戦史資料 昭20.11」(防衛研究所 戦史史料・戦史叢書検索)

「高射第4師団配備要図」(防衛研究所 戦史史料・戦史叢書検索)

「北九州高射砲隊配備要図」(防衛研究所 戦史史料・戦史叢書検索)

「本土地上防空作戦記録:西部地区」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「写真週報(292)」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「四式七糎半高射砲説明書」(Ref No.A03032144000 アジア歴史資料センター)

「高射砲陣地築設要領」(Ref No.A03032195600 アジア歴史資料センター)

「高射戦史」(下志津(高射学校)修親会)

「日本の大砲」(竹内昭/佐山二郎共著 出版協同社)

「日本陸軍の火砲 高射砲」(佐山二郎著 光人社NF文庫)

「福岡県の戦争遺跡」(福岡県教育委員会)

「DEFENSE OF JAPAN 1945」(Steven Zaloga)

「地図・空中写真閲覧サービス」(国土地理院)

「wikipedia」