蓋井島(ふたおいじま)は下関市吉母(よしも)の沖合約6kmの響灘に浮かぶ島です。周囲約10kmで、35世帯81人が暮らしています。(令和5年4月1日現在)

 

島中部の金比羅山(標高148m)から南東部の乞月山(こいづきやま)を眺めています。

 

島に渡るには市営渡船を利用します。本土側の吉見港から1日2~3便が往復しており、乗船時間は約40分です。季節や曜日によってダイヤは異なりますが、4~9月の土日祝日なら最大6時間半ほど島に滞在できます。

なお吉見港には船着き場の前に有料駐車場(1日400円)が設けられていますが、JRを利用する場合は、吉見駅から歩いて10分程度で到着します。

 

◎蓋井島航路の時間・運賃の詳細はこちら→→→

 

市営渡船の蓋井丸。

 

船内。

 

船は大きいとは言えませんが、利用客は釣り人が多く、島の特別な行事以外は満員で乗船ができないと言うことはないと思います。

 

なお、船は響灘を渡りますので海上の状態によっては揺れることがあります。特に冬場の揺れは激しく、初めて渡島した時には船酔いをしてしまいました。乗り物に弱い方は酔い止め薬の服用をお勧めします。また時化で欠航することもありますのでご注意を。

 

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さて、蓋井島に軍事施設が設けられることが決まったのは昭和8年(1933)でした。この年に陸軍の下関要塞の砲台建設が決定し、昭和10年(1935)2月には島全域が下関要塞第一区地帯に編入されました。

 

昭和10年2月16日の官報で示された要塞地帯図の告示。

(官報 1935年02月16日 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用)

 

最初に築城されたのは蓋井島砲台(第一)で、島南東部の乞月山に昭和10年3月に構築されました。その後関連施設が随時設けられていきましたが、昭和14年(1939)には2つ目の砲台となる蓋井島第二砲台が島の北西部に竣工しました。

また陸軍だけではなく海軍も、昭和16年(1941)12月の大東亜戦争開戦以前に対潜哨戒・攻撃を任務とする2つの防備衛所を設けましたので、蓋井島は響灘を守る重要拠点に位置付けられていきました。

 

下関要塞の砲台配置図(昭和15年~)

 

日米風雲急を告げる昭和16年7月7日、下関要塞に準戦備が下令されました。続く11月8日には本戦備となり、下関要塞重砲兵聯隊が各砲台に分かれて配置に就きました。蓋井島における配備は以下の通りです。

 

◎下関要塞重砲兵聯隊第一大隊本部

◎第一大隊第一中隊:蓋井島砲台(第一) 十五糎加農 4門

◎第一大隊第三中隊:蓋井島第二砲台 七糎加農 4門

◎第一大隊第五中隊の一部:臨時砲台 三八式野砲 2門(昭和18年6月撤去)

 

海軍:

〇下関防備隊白瀬防備衛所

〇下関防備隊賢女鼻防備衛所

〇呉警備隊蓋井島特設見張所(昭和17年9月廃止)

 

以上の態勢で大東亜戦争に入りましたが、戦争末期の昭和20年(1945)の5月末には、本土決戦に備えて島に据え付けられたすべての加農砲を本土に転移することが決まりました。

6月以降は洞窟を掘削しての砲台構築が進められましたが、完成途上で8月15日の終戦を迎えました。なお蓋井島の加農砲の移転先と作業進捗状況は以下の通りです。

 

・十五糎加農 2門→浅川(北九州市八幡西区辺り) 作業掘開70%

・十五糎加農 2門→藤川(福岡県久山町辺り) 作業掘開70%

・七糎加農 1門→武久(下関市) 作業完了

・七糎加農 1門→彦島(下関市) 作業概ね完了

・七糎加農 1門→新町(北九州市小倉北区辺り) 作業概ね完了

・七糎加農 1門→富野(北九州市小倉北区辺り) 作業完了

 

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蓋井島における軍事施設の配置です。

 

上記の配置図は『日本築城史』や『下関重砲兵連隊史』に掲載されている地図とは異なる部分が多々ありますが、臨時砲台以外の施設の遺構は確認しましたので、あくまで現地探索した結果に基づき作成しています。

 

遺構までの行き方ですが、南東部の第一砲台は軍道が登山道になっており、道筋もはっきりしていますので比較的楽に行けます。

一方北西部は、道があるものの荒れており難易度は高いです。特に白瀬防備衛所の周辺は道も消えて藪も濃くなりますので、道迷いの恐れがあります。

さらに2つの洞窟砲台は崖に築かれており、一歩間違えれば滑落の危険が伴うことを記しておきます。

 

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それでは上記配置図に従って軍事施設の遺構を南側から順に簡単に紹介します。

 

①蓋井島砲台(第一)

◆竣工:昭和10年(1935)3月20日

◆備砲:四五式十五糎加農砲 改造固定式(特) 4門

◆配置:乞月山の標高135mと91mに上下段分かれて2門ずつ配置

◆特記:正式名称に第一は付かないが、便宜上第一砲台と呼称

◆遺構:砲座、観測所、地下坑道と砲側庫など

 

 

②火薬庫・弾丸庫・兵舎

◆特記:第一砲台付属の施設

◆遺構:多くは藪の中に建物基礎が残るだけだが、洞窟式の火薬庫は状態良く現存

 

③繋船場

◆特記:西側の繋船場(桟橋)がメインで東側は補助だった模様

◆遺構:西繋船場は現存、東繋船場は崩壊して瓦礫のみ

 

④臨時砲台(推測)

◆特記:開戦前に急造された野砲陣地だが正確な場所は不明

◆遺構:推定位置は耕作地となっており場所が正しければ消滅済み

 

⑤乞月山洞窟砲台/東北地区洞窟砲台

◆特記:十五糎加農の移設を企図したが掘開中に本土転移が決まったので中止

◆特記②:遺構は崖面にあるので非常に危険

◆遺構:コンクリート打設中だったことが窺える洞窟

 

⑥蓋井島電燈所(第一)

◆竣工:昭和10年(1935)6月20日

◆装備:94型可搬式150㎝射光機 1基、電燈格納庫、照明座

◆特記:正式名称に第一は付かないが、便宜上第一電燈所と呼称

◆遺構:藪の中に照明座、誘導路、建物基礎

 

⑦偽装砲台

◆特記:十五糎加農に模したコンクリートと石積みの偽砲

◆遺構:偽砲4門が現存

 

⑧蓋井島第二砲台

◆竣工:昭和14年(1939)8月31日

◆備砲:十一年式七糎加農 4門

◆遺構:砲座、観測所、砲側庫など

 

⑨大隊本部・観測所・兵舎

◆特記:第二砲台の付属施設や大隊の本部施設、第一砲台補助観測所

◆遺構:大隊本部機能を有していたと思われる2階建ての建物、第一砲台補助観測所(八八式海岸射撃具観測所)、藪の中に数多くの建物基礎

 

⑩蓋井島第二電燈所

◆竣工:昭和14年(1939)7月31日

◆装備:ス式150㎝射光機 遊動式1基、掩燈所、照明座、発電所及び属品格納庫

◆遺構:掩燈所が完存

 

⑪海軍・白瀬防備衛所

◆任務:島西側海面における対潜哨戒及び攻撃

◆遺構:衛所の建物、関連施設の建物基礎

 

⑫海軍・賢女鼻防備衛所

◆任務:島東側海面における対潜哨戒及び攻撃

◆遺構:衛所の建物、関連施設の建物基礎

 

以上、12か所に区分けしてみました。

 

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それでは蓋井島を散策しますが、写真は撮影年や季節が異なります。

 

桟橋近くの漁村センター内に売店がありますが、その上方の矢印の所に灯台が立っているので行ってみます。

 

山道を歩いて到着。明治45年7月15日初点の蓋井島灯台です。

 

灯台周辺に「蓋井島灯台用地」の標石が埋設されています。

 

灯台北側には2021年にしま山100選に選ばれた金比羅山が聳えており、山頂には鳥居と祠が鎮座しています。

 

金比羅山から下りて遊歩道を進むと、島北西部への登山口がありますが、未だにヒゼンマユミが何なのかが分からない草花音痴です笑

 

登山口から蓋井小中学校方面に下りるとエミュー牧場があります。

 

かわいい(*´Д`)

 

エミュー牧場から海岸線の道路を南東部に歩いて行くと八幡宮があります。

 

拝殿に上がる長い階段の脇に戦役記念碑が建っています。

 

以前レポートしましたのでご興味あればどうぞ。

 

ところで、蓋井島では「山ノ神」と呼ばれる神事が7年目ごと(6年に1度)に行われています。島内には山の神を祀る一の山から四の山までの四つ森が存在していますが、11月の三日二夜に亘って山ノ神を家へ迎えて盛大にもてなし、再び山の森へ送り届けるという神事です。前回は2018年に行われましたので次回は来年の2024年ですね。なお山ノ神神事は国指定の重要有形民俗文化財となっています。

 

乞月山への取りつき。ここから第一砲台に向かいますが年々ヤブっています。

 

桟橋付近に戻ってきての、ぬこさんたち。

 

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それでは最後に様々な場所から蓋井島を眺めて本記事を締めたいと思います。

 

乗船中に撮影。おおまかな砲台位置を記しました。

 

竜王山中腹から吉見地区越しに。

 

観音崎砲台西側の海岸から。

 

小倉北区に浮かぶ藍島の千畳敷から。

 

下関市彦島の老の山公園から。

 

最後は吉母富士から。

 

以上、蓋井島の軍事施設 -概略-でした。