本カテゴリーは飛行場跡を巡るだけではなく、関連する遺構・記念碑も合わせて紹介していきます。今回紹介するのは小月飛行場関連です。

 

北九州市の折尾地区(八幡西区大膳)には、「体当たり勇士の碑」と呼ばれる石碑が立っています。

 

昭和19年(1944)8月20日夕刻、B29約80機が八幡製鉄所を狙って来襲しました。この日は6月16日の初空襲に続き2回目の本土空襲となりましたが、小月基地の飛行第4戦隊をはじめ芦屋、防府の飛行戦隊がこれを迎え撃ち、撃墜破20機以上の戦果を挙げました。中でも、飛行第4戦隊所属の野辺軍曹と高木兵長が搭乗する二式複戦「屠龍」はB29に対して体当たりを敢行、見事2機を撃墜し壮烈に散華しました。

この日の空中戦を目撃した市民たちは、町を守った2人の栄誉を称えるべく、芦屋の海岸から砂利を運んで墜落現場となる当地に忠霊碑を建立しました。

 

 

嗚呼忠烈 体當勇士 陸軍准尉 野邊重夫君 陸軍軍曹 高木傳蔵君 之碑 と彫られています。階級は2階級特進していますね。なお題字を揮毫したのは、飛行第4戦隊が所属していた第12飛行師団長の三好康之陸軍少将です。

 

体当たりを敢行した経緯が銘板に刻まれています。

 

野辺・高木両勇士の戦記

昭和十九年八月二十日午後五時、真夏の太陽が西に傾きかけた頃であった。突如空襲警報が発令、我が飛行第四戦隊は小月飛行場を発進、北九州上空に迎撃態勢を完了した。まもなく西のかなたに米空軍空の要塞といわれたB29大型爆撃機八十余機が地平線上に現われ、数個梯団となって北九州を目標に来襲してきた。いよいよ我が戦隊も迎撃体形に移行し戦闘の火ぶたを切った。

操縦は少年飛行兵第六期野辺重夫軍曹、戦技第十三期高木伝蔵兵長の野辺機は敵の第二梯団長機に対し第一撃を指向、三十七粍砲の第一弾を発射したが撃墜には至らず、このままならば敵機は北九州に爆弾投下は必至と察知しこれまでと決意、軍人精神を胸に秘め「野辺今から体当り」の一語を残し敵機のやゝ斜め前方より第二梯団長機を目掛けまっしぐらに突進、壮烈果敢な体当りを敢行、一瞬彼我両機は一塊となって空中に浮かび、更にその爆破片また第二番機に激突これまた瞬時にして空中分解し一機を以て敵超爆撃機二機を葬り日本戦史を飾る身機一体壮烈なる戦史を遂げた。

両名は身をもって皇土を防衛すべく烈々たる責任観念に透徹し、崇高なる精神と壮烈なる行動をもって皇国軍人の真面目をいかんなく発揮し国軍の亀鑑となった。このことは早速上聞に達し、野辺、高木両友は二階級特進の栄誉に輝き悠久の大義に殉じこの地に永眠されることとなった。

 

読みやすいように句読点を挿入しています。

 

この日の戦闘の様子は当時のニュースにも取り上げられています。

 

ニュースの中で「〇〇曹長、野辺軍曹、高木兵長三勇士体当りの尽忠を...」とアナウンスされています。あれ?3人??屠龍は2人乗りなので、もう1機突入して1人は生還したので3人?そもそも3人なら3人分の忠霊碑が立つはずなので誤報なのだろうか?

 

銘板裏面にある建立の記。

 

忠霊碑は住宅街の高台に立っています。車じゃないと行き難い場所あります。って言うか車で行っても駐車する場所がないんですけどね(^^;

 

場所はこちら →→→

 

 

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さて、「愛国顕彰ホームページ 祖国日本」様のサイトを拝読すると、体当たりで撃墜したうちの1機が、小倉北区の菜園場(さえんば)第二町会の防空壕に墜落し、避難していた数名が亡くなられたと書かれています。

 

菜園場には今も防空壕の跡が残っています。

 

防空壕近くの愛宕神社には防空壕の碑が立っています。鳥居の左手にあります。

 

第一町内会三組の防空壕を示す物だったようです。

 

ちなみに菜園場には窯跡が有形文化財として県の指定を受けています。

 

江戸期に設けられた焚口と4つの焼成室を持つ登窯です。

 

 

菜園場の場所はこちら →→→

 

以上、体当たり勇士の碑/菜園場防空壕でした。