今日は、平生(ひらお)町に置かれた海軍潜水学校柳井分校を取り上げます。
海軍潜水学校は潜水艦乗組員を養成する教育機関で、大正9年(1920)9月に呉にて開校しました。開港当初は校舎はなく、軍艦厳島を呉軍港内に係留して校舎兼兵舎としましたが、その後の潜水艦の増勢で生徒数も増加したため、大正13年(1924)に陸上に校舎を建設しました。
昭和に入ると年を追うごとに施設は狭隘となり、呉軍港水域も潜水艦訓練に不便さが生じたことから、昭和14年(1939)以降、広島県大竹町への移転が進められることになりました。大東亜戦争開戦3か月後の昭和17年(1942)3月から逐次移転が行われ、11月23日に大竹へのすべての移転が完了しました。(開校式は翌年6月)
大竹潜水学校があった辺りを望む。
探知講堂はコレ。現在は壁の一部だけ現存しています。(見に行ったら載せますw
移転してまもなく、教育科目の増加とともに受け入れる練習生の数も急増したため、練習生2千名を収容できる施設の拡充が急務となりました。ところが大竹では用地の確保が難しかったため、山口県熊毛郡平生町の阿多田(あたた)半島の土地を買収して分校を建設することが決定されました。
昭和18年(1943)1月より工事に着手しましたが、戦局の悪化とともに資材不足から思うように進まず、開校したのは着手から1年以上経ってからでした。
昭和26年の阿多田半島(潜水学校/回天基地跡地)
昭和19年(1944)4月1日、「海軍潜水学校平生分校」として開校し、翌5月より潜水艦要因養成教育を開始しました。その後昭和20年(1945)3月までに練習生4期生まで入校しましたが、4月になると通常の教育はすべて大竹本校に移し、平生分校では水中特攻兵器の蛟龍および海龍の搭乗員を養成する教育に専念することになりました。
士官は1か月、候補生1か月半、予備学生/予科練習生は2か月の基礎教育を実施し、修業後は大浦、小豆島、横須賀の各突撃隊に転出して実習を行いましたが、7月以降は激化する空襲に対処するため、防空壕掘削作業に追われることになりました。8月10日には平生分校から「柳井分校」に改称されましたが、その5日後の昭和20年8月15日に終戦を迎えました。
特殊潜航艇 海龍(大和ミュージアム展示)
終戦時の在校生は、学生325名、練習生2,042名、合計2,365名でしたが、22日から復員を開始し故郷に帰って行きました。
戦後、柳井分校跡地は施設を転用して少年院となり、一部は造船所などに払い下げられましたが、少年院は昭和53年に業務が停止され、平成13年(2001)にすべての施設が解体されました。
現在の阿多田半島は、半島付け根に平成16年(2004)に開館した阿多田交流館や民家が立っていますが、半島自体は、一部企業敷地を除いて大ヤブに埋もれています。
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長々と潜水学校の歴史を語ってきましたが、ここで当時の施設を現在の地図に重ねてみました。
青色が柳井分校の施設となります。赤色が平生突撃隊ですが、こちらは人間魚雷「回天」の訓練基地となります。昭和20年3月1日、柳井分校に隣接する形で開設されました。さらに半島付け根の北側には、資材や木材を保管する呉海軍施設部平生出張所が置かれていました。
柳井分校の遺構については、建物はすべて消失しましたが、神花山(じんがやま)の周囲に防空壕が複数残っています。青色で四角く囲った名称が現存遺構ですが、これらは後編に紹介します。
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それでは阿多田半島を歩いてみます。
まずは阿多田半島北側の全景です。
半島の先に向けて一応道はあるのですがなかなか繁っているので、途中から海岸に下りて石積みの護岸沿いを歩きました。
放置されている錨。
護岸の切れ目にレール跡。
当時物なら嬉しいけど多分違う...。
護岸沿いを歩けなくなったので道へ。所どころ歩きやすいですが、道を外れるとヤブ...。今は見取図だと第一工作工場辺りを歩いています。
コンクリート床とレンガを発見。平生突撃隊の衛兵詰所辺りです。
まっすぐ行けなくなりました...ってか凄いヤブやな(゚Д゚;)
左折して南に向かいます。なんとか歩けますね。
南岸に出ました。見取図だと魚雷調整工場と通信実習所の間です。ちなみに目の前に見えるのは、馬島(うましま)、刎島(はねしま)、佐合島(さごうじま)です。
この後、どちら方面にも行けなくなったのでココで撤退しました。行けなくなったって言うか、もう行きたくないってのが本音(笑)
馬島から見た阿多田半島南側です。
矢印の所まで来ましたが、南岸沿いなら先端まで行けそうな気もする...。ってか南岸も北岸も大潮の時なら海岸伝いに先端まで行けそうなので、今度チャレンジしてみよう。
ちなみに、半島先端の山のようになっている所は阿多田島。元々は島で陸続きではなかったらしい。阿多田半島には4基の古墳(神花山古墳・阿多田古墳・阿多田山麓古墳・野稲古墳)がありますが、こんな状態なので神花山古墳以外の現況は不明です。
神花山古墳はこちら。
小山の上に石棺があります。
説明書きには「高射砲陣地が構築された時に偶然発見された」と書かれています。
石棺から見つかった人骨は女性だったことから立ったのが古代女王の像です。
では、最後に馬島航路のフェリーから半島先端を見てみます。
なんか横穴壕が開いているように見えて気になるんだが(;'∀')
以上で前編終了です。後編にて遺構を紹介します。
場所はこちらをクリック(阿多田交流館の場所) →→→
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[参考文献]
「海軍潜水学校史」(津田 勲 海上自衛隊潜水艦教育訓練隊 1996)
「海軍史辞典」(小池猪一編 国書刊行会 1985)
「平生町史」(平生町役場 1978)
「呉海軍施設部平生出張所」(アジア歴史資料センター Ref No.C08011153100)
「海軍潜水学校柳井分校」(アジア歴史資料センター Ref No.C08011151400)
「平生嵐部隊位置図」(アジア歴史資料センター Ref No.C08011111400)