光海軍工廠は光市の光井・島田地区に建設された国内7番目の海軍工廠で、大東亜戦争開戦前年の昭和15年(1940年)10月1日に開庁しました。

海軍の兵器工場として、砲煩、水雷、製鋼、爆弾、造機、航空機用魚雷の生産が戦時中においても着実に行われていきましたが、終戦前日の昭和20年(1945)8月14日、米軍の空襲によって施設の7割が壊滅し、700人以上が犠牲となりました。

 

場所を地図で示します。

 

茶臼山から見た光海軍工廠跡地です。戦後跡地には日鉄ステンレスや武田薬品などの工場が建設されました。

 

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工廠開庁から1年後には戦争が始まりましたので、設備は随時増設されていきました。主に高角砲の弾丸と航空機用魚雷の生産が主力だったようです。なお従業員数も年々増加の一途を辿り、終戦前には3万人を超える人たちが働いていました。

以下に、生産の概況と従業員数の推移を記します。(光海軍工廠秘史 建設第二期・開庁以後より引用)

 

戦後占領軍に提出された年間生産能力と実績概況

溶解:72,000トン(S19年度・78,400トン)

鍛錬:26,400トン(S19年ほぼ実績通り)

高角砲砲身(12.7cm/10㎝):960門(S19年度・360門)

高角砲弾丸(12.7cm/10㎝等):12万個(最盛時月間1万個)

艦用及び陸上用高射装置:96基(S19の能力は16基)

爆弾(800㎏):2,400個(S19末・月産200発)

魚雷(九一式/二式):1,440本(S19末・月産100本、S19/年産700本)

 

従業員数の推移

昭和15年開庁時:491人

昭和17年10月:9,280人

昭和18年10月:17,300人

昭和20年終戦前:31,286人(内、学徒6,523人)

 

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昭和22年(1947)に米軍が撮影した空中写真にいくつか書き込んでみました。

 

終戦直前に受けた空襲の爪痕が、戦後2年経っても残っているのが分かります。

構内に入ったことがないので分かりませんが、当時の遺構は残っていないものと思われます。なお本部庁舎の建物は近年まで武田薬品光工場の施設として使われていましたが、取り壊されてしまいました。

 

工廠東側には人間魚雷回天の訓練基地がありましたが、水雷部の工場や魚雷揚収場の区画に昭和19年(1944)11月に設けられました。

 

高角砲台、機銃砲台、照聴所と言った防空施設は構内の山の中に現存しています。見たことはありませんが、「光海軍工廠の防空」と題してレポートしましたので、よろしければご覧下さい。

 

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正門があった場所にやって来ました。

以前はココから現存していた本部庁舎が見えていたようです。

 

平和の光記念碑が建てられています。

 

 

記念碑の横に方形コンクリートが置かれています。当時の物でしょうか?

 

正門跡地は正門町緑地として整備されていますが、ここに慰霊碑が建っています。

 

空襲の犠牲者、回天搭乗員などの御霊を追悼しています。

 

記念樹が移植されていますがどれかがよく分からない(^^;

 

記念樹の由来です。

 

光海軍工廠の廃材を使って建設された本川橋の隙間にあったシンジュの木を移植したと書かれています。本川橋は訪れたことがありませんが、光文化センターの展示室に写真が掲げられています。

 

なお広島・海田町の九十九橋も廃材を使って再建されました。

 

正門跡地から北に歩いて行くと、工廠敷地を隔てていたコンクリート塀が現存しています。

 

コンクリート塀はさらに続きますが、奥に見える小山に12.7㎝高角砲2基を有する防空砲台が設けられていました。

 

しばし進むと、コンクリート塀がなくなりフェンスに変わってしまいました。

 

去年まではココにもコンクリート塀がありました。現存していた時の写真です。

 

北側の国道188号線までの長い距離に亘って残っていたのですが、すべて取り壊されてしまいました。

全国各地で当時の遺構が取り壊されている昨今、壁ひとつではありますが無くなってしまうのは寂しいことです。

 

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工廠の北西側にやってきました。

ここには島田川が流れていますが、当時は光駅から工廠への鉄道引込線が設けられており、島田川には鉄橋が架かっていました。戦後、線路は取り除かれてパイプラインが設けられましたが、鉄橋の跡は現存しています。

 

ヒキで。

 

下流を見ると川の中に何かが立っています。

 

ヨリで見てみます。

 

コンクリートや土管のような物が見えますが、おそらくこれらは木造連絡橋の橋桁の残骸ではないかと思われます。今ではすっかり鳥の羽休め場となっていますが(^^;

 

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工廠北側には配水池が設けられていました。

 

配水池から工廠および工廠の社宅に水が送られましたが、配水池には5千トンのタンクが3基作られ、昭和15年10月5日には、1日1万5千トンの水を送ることができるようになったようです。

 

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工廠跡地周辺の散策は以上ですが、光市文化センターには工廠の遺品が展示されていますので、いくつか紹介します。

 

光海軍工廠の正門の銘板です。

 

貨物取扱場の鉄骨

 

戦後に撮影された本部庁舎跡。戦時迷彩が施されているのが分かります。

 

正門周辺です。空襲の爪痕が確認できます。

 

当時使われていた器具類。

 

工員募集の張り紙。

 

以上、光海軍工廠でした。

 

平和の光記念碑の場所はこちらをクリック →→→

光文化センターは場所はこちらをクリック →→→

 

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[参考文献]

「光海軍工廠秘史 建設第二期・開庁以後」(秋本元之、2019.1)

「光海軍工廠」(秋本元之、2020.8)

「回想の譜・光海軍工廠」(光廠会、1985.11)