※2020年8月24日執筆

 

下松市内から笠戸大橋を渡って笠戸島に上陸するとすぐ、夕日岬の看板が見えてきます。西日本でも有数の夕日の名所として知られるビュースポットですが、この場所から少し視線を下げて海岸に目を向けると、何か塊のような物体が海面に見え隠れしていることに気付きます。

 

 

初めて見た時は「なんだろう?」と思いましたが、夕日岬の案内看板にはこの物体についての説明も書かれていましたので、すぐに分かりました。

 

この正体は戦時中に建造されたコンクリート製の油槽船で、戦争が終わってから湾内に係留されていたところ、昭和26年の台風で座礁損壊してこの場所に打ち上げられたとのことです。

 

近くで見てみたいと思いましたが、上の写真でも分かるように浜辺から離れていますし、船体は僅かしか顔を覗かせていませんので、またいつか見に来ようとこの日は諦めて帰宅の途に着きました。

あれから随分経ちましたが、先日、潮見表を見て一番ベストな日時を狙って行ってきました。

 

先日の訪問時、上の写真と同じ場所から撮った写真です。

海面から露出して触れる位置まで潮が引いています。狙い通り(・∀・)

 

ここで、コンクリート船について簡単に書いておきます。

 

戦時下の日本は、輸送する貨物船も造船用の鋼材も不足していたため、舞鶴海軍工廠が中心となってコンクリート船の建造が計画されました。

昭和18年6月から11月までに5隻の「コンクリート製被曳航油槽船」が完成し、海軍雑役船として呉海軍軍需部所属となりましたが、「被曳航」の文字が示す通り、この5隻はエンジンのない自力航行ができないバージでしたので、他の船に曳いてもらわないと動けないものでした。船が任務に就いた昭和19年ともなると戦局の悪化で海上の危険度は増していましたので、南方から油を積んで本土にノロノロと曳航するなんてなかなかできたものではなかったでしょう。結局当初の計画通りにはいかず、湾内での浮きタンクとして係留されることになりました。

 

なお、建造された5隻の内の1隻が笠戸島に座礁している船だと言われていますが、現在の姿は第3船艙以下の部分で、船首から第2船艙までは台風で破壊され消失してまったようです。

 

説明看板です。

 

コンクリート船の全景。斜線の部分が消失した箇所となります。

 

夕日岬から望遠で撮影しています。

全長55mで船艙は5つありましたが、写真での状態は、第3船艙と第4船艙が露出、第5船艙は海の中です。

 

では浜辺に下りて近くで見てみます。

 

右舷側です。

 

 

船首(があった)側から。

格子状の部分は、第2船艙と第3船艙を分ける第2横隔壁です。

 

第2横隔壁をより近くで。

 

上部は破損していて鉄筋がむき出しになっています。

 

破損部分から第3船艙の内部を覗いてみました。左舷側の縦の隔壁です。

 

第3船艙の内部の右舷側です。

 

第3横隔壁の向こうは第4船艙ですが、落ちたくないので行きませんw

 

ヒキでも見てみます。

 

斜め前より左舷側を見ています。

 

第3船艙の油密ハッチです。

 

ハッチから梯子で内部に下りることができます。

 

左舷側の船底方向を見ています。

 

では立ち去ります。

 

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※2023年7月12日執筆

 

笠戸島に座礁するコンクリート船は以上ですが、1947年の空中写真を見るとこの場所に4隻の船が係留しているように見えます。

 

これらがすべてコンクリート製被曳航油槽船とすれば、5隻建造されたうちの4隻係留されていることになりますが、それらはどこに行ったのでしょう?1隻は座礁船だとして残り3隻の行方を空中写真で探ってみます。

 

広島県呉市音戸町です。これは今でも現存していますね。

 

山口県下関市岬之町周辺です。

 

下松地方研究の寄稿文には「昭和25年前後の下関港工事事務所の概要の中で、コンクリート船のさく岩船を沈没して防波堤にする工事を行い...」との記述がありますが、これがコンクリート製被曳航油槽船かどうかは不明です。

なお現在この写真の場所は再開発されていますので、何も残っていません。

 

山口県周南市粭島(すくもじま)です。

 

いかにも怪しい防波堤ですね(^^;

これ以外にも写真が残っていないかと探ってみたところ、「目で見る徳山・下松・光・新南陽の100年」に該当の写真を見つけました。

 

おお!これはコンクリート船の防波堤だ!と思って説明文を読むと、「粭島の潜水艦桟橋」と書いてある…(・_・;)エッ?

「漁港の防波堤の先端に潜水艦をつなぎ、桟橋にしていた。機械類は取り外し形骸だけ利用した。」と。

 

真偽については不明ですが、現地を訪れてみたところ防波堤は作り直されており痕跡はまったく残っていませんでした。

 

以上、笠戸島のコンクリート船でした。

 

場所はこちらをクリック →→→

 

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[参考文献]

「下松地方史研究 第54輯」(下松地方史研究会、平成30年4月)

~「笠戸湾に座礁するコンクリート船」(浅本輝昭)

JACAR(アジア歴史資料センター)

・海軍公報 昭和18年12月21日(Ref.C12070450300)