今日は日露戦争時の参謀次長で、日本の航空とスキーの先駆者となった長岡外史を取り上げます。

 

下松市望町に生誕之地の石碑、笠戸島に銅像の立つ外史公園があります。

 

長岡外史(ながおかがいし)は、安政3年(1856)5月13日、山口県都濃郡末武村(現下松市)の堀 時(トキ)の子として生まれる。幼名は忠蔵。11歳の時に萩藩士長岡弥九郎の養子となり名を昱輔(いくすけ)と改めたが、14歳の時、寄宿していた明倫館を訪れた元藩主・毛利元徳より、日本外史をよく暗譜していたことが認められ、“外史”の名を贈られた。

19歳で上京し、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業、明治27年(1894)の日清戦争では第1軍兵站部参謀長として軍需物資の輸送に尽力した。明治35年(1902)に陸軍少将となり、日露戦争開戦後の明治37年(1904)6月には、児玉源太郎参謀次長が満州軍総参謀長として出征したのを引き継ぎ、参謀次長に就任した。

就任後は、旅順攻略に二十八糎榴弾砲を使用する具申を受けて大陸に送る手はずを整える一方で、日本海の安全確保の観点から樺太占領は必要だとの持論を展開。なかなか同意を得られなかったが、明治38年(1905)6月、明治天皇の裁可が下り、7月に軍を送ってこれを占領した。なお占領後のポーツマス条約において、北部は露西亜に返還されたものの南樺太は割譲され、昭和20年(1945)8月まで日本領となった。

 

明治42年(1909)に陸軍中将に昇進、翌年には新潟県高田(現上越市)の第13師団長となった。高田ではオーストリアのレルヒ少佐を指導者としてスキーの普及に努めたが、軍隊のみならず民間にまで幅広く広めたことから、日本におけるスキー発展の先駆的役割を果たすことになった。

 

大正4年(1915)予備役に入った後は大正4年(1915)に国民飛行会を創設して会長に、ついで大正8年(1918)には帝国飛行協会の副会長に就任し、飛行機を日本に普及させるための講演や飛行実演を各地で行うなど、海外から大きく遅れをとっていた日本航空界の発展に尽力した。

大正13年(1924)に衆議院議員選挙に立候補して当選。昭和3年(1928)まで代議士を1期務めたが、羽田に飛行場を設けることや航空に関する中央行政機関の設立を提案した。

昭和8年(1933)4月21日、膀胱乳腫のため77歳でその生涯を閉じた。

 

*****************************************

以上、簡単に経歴を紹介しましたが、長岡外史と言えばやはりヒゲですね。

カイゼル髭(ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が、両端がはね上がった八の字形の口ヒゲを蓄えたことでそう呼ばれた)は当時の流行でしたが、長岡のヒゲは約70㎝の長さもあり、プロペラ髭と呼ばれて世界一を標榜していました。大正3年(1914)まではそれほど長くなかったですが、椿油を使い始めてからグングン伸びたようです。

 

立派ですね(・∀・) でもよく垂れ下がらずにピンとしているよな。

※長岡外史関係文書 回顧録篇より引用

 

******************************************

外史ゆかりの下松市には、昭和53年(1978)に建立された石像が笠戸島の外史公園に立っています。

 

 

階段を上がると外史さんが出迎えてくれます。

 

長岡外史像です。石像でも髭が目立っています(^^)

 

手元を拡大すると...飛行機を持っています。

 

銘板。

 

台石には遺言が彫られています。

 

オーストリア大使揮毫の石も置かれています。

 

****************************************

次に、下松市望町に設けられている長岡外史生誕之地の碑を見に行きます。

 

自動車販売会社の一角に立っています。

 

長岡外史生誕之地の碑です。

 

今から6年前の平成29年(2017)に下松地方史研究会が建立しました。

 

側面に「交通安全」の文字があります。

 

大正10年(1921)2月、明治神宮前停車場で電車から降りた19歳の三女安芸子が自動車に亡くなる事故がありましたが、外史はその翌日から九段下の雑踏に立って交通整理を始めたそうです。これが日本で最初の交通安全運動だったことから、この石碑に刻まれました。

 

************************************

この場所は外史の母親である掘 時(トキ)の実家があった所です。

外史はココで生まれたので下松市出身だとするのが定説となっていますが、実は柳井市にも生誕の石碑が設けられています

 

柳井市土手町に立つ生誕の碑です。

 

「日本航空界とスキー普及の恩人 長岡外史 ここに生まる」とあります。

昭和51年(1976)12月28日建立ですので、設けられたのは下松の石碑より40年以上早いですね。

 

こちらは掘 時の嫁ぎ先の野村家があった場所ですが、外史は下松市の堀家?柳井市の野村家?どっちで生まれたのよ??ちょっと分からないので時系列で見てみることにします。

 

1.都濃郡末武村(現下松市)の堀三右衛門の妹である時(トキ)が、栗屋村(現周南市)の温品謙吉(のち小方謙九郎と名乗り奇兵隊で活躍)と恋仲になる

 

2.19歳のトキが外史を身籠る

 

3.トキと謙吉はなぜか結ばれず、トキは外史を身籠ったまま玖珂郡柳井津(現柳井市)の埜邑(野村)安太郎の後妻として嫁いでしまう

 

4.嫁ぎ先の柳井の野村家もしくは実家のある下松の堀家で外史を産む

 

5.野村家には跡取りがおり外史の入籍を拒んだので、生まれて間もなく母親から離され、トキの姉梅子の嫁ぎ先である小周防村(現光市)の守田彦右衛門に引き取られる

 

6.8歳の時に守田家を離れ、母の実家の堀三右衛門に籍を置く

 

7.11歳の時、萩藩の士族長岡弥九郎の養子となり萩に移り住む

 

以上が外史の幼少期ですが、両親の顔も知らないままになかなかの波乱万丈ぶりですね(^^;

でもなぜトキと謙吉は結ばれなかったのでしょうね?お互い庄屋の出ですから身分不相応ってわけではなかっただろうし。もしかして野村さんに略奪されたとか?w

略奪愛の結果自分の嫁にしたのはいいけれど、謙吉の子を身籠っていたことを知って、俺の子じゃねぇならいらね、ってなったとか?、、、ひでぇなオイ。(あくまで妄想ですので野村さんゴメン)

考えると楽し...いや複雑ですよね(^^;

 

***************************************

で本題。結局生まれたのはどちらだったのか?

昭和63年(1988)の柳井市郷談会誌に掲載された寄稿文には、外史の私記「護堂私乗」に「柳井ニ生ル」と明記されていることや野村家の縁戚の話を根拠として、外史が生まれたのは柳井市だと主張しています。

柳井市の生誕の碑には長岡外史顕彰会の会長も寄付者として名を連ねているので、柳井市で生まれたとするのが正解ではないでしょうか?

ただ、その後は外史公園を作るなど下松市が生誕地だとプッシュしたので“下松市出身”が世間の定説になり、近年になって下松市に生誕碑が建てられたと、、、。

まぁ一方の主張だけ聞いても確かではないので下松の石碑を建てた団体に聞いてみたいところですが、柳井で生まれたのが正しかったとしても、外史が柳井の野村家にいたのはごくごく僅かな期間だったでしょう。生まれて8歳まで光市の小周防にいたのだから、ここは間を取って“光市出身”ってことで笑(オイ、それは違うw

 

****************************************

さて、下松市の降松神社の後背に聳える鷲頭山に、外史揮毫の石碑が建っているので見に行きます。

 

降松神社(若宮)です。

 

由緒。

 

明治45年に「偕楽園」と言う一大公園を設けましたが、大正8年に長岡外史は「周防第一園」と称えて記念碑を建立したとあります。

 

一大公園なので登って行くと中宮公園記念碑なる物が立っています。

 

下松市街地が一望できます。

 

立派な門が現れました。

 

こちらが「周防第一苑」と刻まれた長岡外史揮毫の記念碑です。大正5年(1916)5月建立。ちなみに麓からここまで約40分です。

 

以上、長岡外史の生誕地/外史公園でした。

 

・外史公園の場所はこちらをクリック→→→

・下松の生誕地の碑はこちらをクリック→→→

・柳井の生誕地の碑はこちらをクリック→→→

・降松神社の場所はこちらをクリック→→→

=================================

[参考文献]

・長岡外史関係文書 回顧録篇(長岡外史文書研究会)

・航空とスキーの先駆者 人間 長岡外史(戸田大八郎)

・柳井の長岡外史生誕碑をめぐって(柳井市郷談会誌第12号(昭和63年2月)別刷、角井 菊雄)