下松市潮音町に残る「義勇奉公」碑を紹介します。

 

 

「義勇奉公」碑は日清戦争の勝利を紀念して建てられた石碑ですが、交差点の角っこに立っています。

 

 

題字は「義勇奉公」。揮毫者は陸軍少将仲木之植(なかき ゆきたね)です。

初めて聞くお方ですが、嘉永元年(1848)に現在の萩市で生まれ、幕末の四境戦争や戊辰戦争に従軍、維新後は陸軍に入隊、明治27-28年の日清戦争では歩兵第四聯隊長として大陸に渡りました。戦後は歩兵第12旅団長を務めましたが病気がちだったようで、明治33年(1900)に退職、その年に亡くなりました。

 

ちなみに、歩兵第12旅団の司令部は小倉城内(北九州市小倉北区)にありましたが、当時の門柱が残っています。

 

説明書き。

 

では石碑に戻って...右側面を見てみます。

 

明治二十七八年征清全勝之紀念

明治三十三年三月建之

末武南村

 

冒頭にも書いた通り日清戦争の勝利を紀念して建てられた石碑ですが、戦争の経緯を簡単に説明します。

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【日清戦争(日清戦役、明治二十七八年戦役)】

明治27年(1894)7月から翌明治28年(1895)4月にかけて行われた清国との戦争で、朝鮮半島の権益を巡る争いが起因となり勃発。開戦後9月に平壌を占領した大日本帝国陸軍は朝鮮半島を北上して清国領土に侵入、11月に遼東半島の旅順要塞を攻略した。

一方海軍の連合艦隊は、9月の黄海海戦にて清国の北洋艦隊を撃破して黄海の制海権を掌握、翌年には山東半島や台湾方面にも戦域が拡大したが、講和を模索する動きとなり、下関での両国交渉の結果、4月17日に日清講和条約(下関条約)が締結されて休戦となった。

なお講和条約に織り込まれた遼東半島の日本への割譲は、いわゆる三国干渉にてフランス、ロシア、ドイツから勧告を受けたため、日本は遼東半島の領有権を放棄、清国に返還された。

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明治33年(1900)3月に末武南村が建立した物ですが、揮毫した仲木さんは歩兵第12旅団長を4月に退職していますのでその前月となります。なお末武南村は現在の下松市南西部から笠戸島にあたりますが、昭和14年(1939)に誕生した下松市に取り込まれて廃止されました。

 

石碑の左側面と裏面には従軍者の氏名が刻まれています。

 

 

「義勇奉公」碑は以上ですが、その隣に孝女おまさ頌徳碑が立っています。

 

説明書き。

 

以上、「義勇奉公」碑でした。

 

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