大東亜戦争末期の昭和20年(1945)、米軍による日本本土への空襲が本格化しましたが、徳山は2度の大規模な空襲を受けました。

 

 

最初の空襲は昭和20年5月10日で、第三海軍燃料廠と大浦油槽所が狙われました。

午前9時50分、B29約110機による燃料廠への爆撃が開始され、その15分後にはB29約80機が大浦油槽所を襲いました。空襲は午前10時50分に終わりましたが、投下された3,500発以上の爆弾(燃料廠に2,017発、大浦油槽所に1,533発)により、設備の大半は破壊されて事実上壊滅、500人以上の命が失われました。

 

2度目は7月27日で、徳山市街地に対する空襲でした。

午前0時過ぎから1時間、B29約100機による焼夷弾爆撃を受け、死者483名、市街地の大半が焼失しました。

 

海軍燃料廠の記事はこちら。

 

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周南市中心部にある児玉公園には、空襲で亡くなった一般市民と戦地で犠牲になった方々の慰霊碑が建てられています。

 

慰霊碑の場所はこちらをクリック →→→

 

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市街地に残る防空壕です。
 
覗いてみた。
 
防空壕の上の道路に説明看板が掲げられています。
 
防空壕の場所はこちらをクリック →→→
 
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燃料廠の北西に東山と言う丘陵地があります。現在は周南緑地公園(西緑地)となっていますが、園内に防空壕らしき痕跡がいくつか残っています。
 
1つ目。
 
2つ目。
 
説明看板の防空壕はどこにあるか分からなかったです。
 
「徳山海軍燃料廠史」には、機器や資材などの避難用として東山で防空壕を掘っていたと言う元廠員の手記が載っていますので、これらの防空壕が該当するかもしれません。
 
なお東山には、徳山海軍警備隊の防空高角砲台が置かれていました。既にブログで書いていますので、ご興味あればご覧下さい。
周南緑地公園(西緑地)の場所はこちらをクリック →→→
 

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では市街地から離れて大島半島の大浦油槽所跡地に行ってみます。

戦後跡地には出光や日本精蝋の油槽施設が設けられましたが、油槽所の山側は当時からほとんど手つかずのままですので、空襲の爆弾跡と思われる大きな丸い穴が数多く残っています。

 

戦後の1947年に米軍が撮影した空中写真です。

 

海岸沿いに円形の油槽が並んでいるのが大浦油槽所です。その東側に縦にクネクネと伸びる道筋が見えますが、この道は舗装されて現在も使われています。道沿いには無数の白い点々が確認できますが、これが爆弾が着弾して大きな穴があいた跡です。

 

柵のある左側が油槽所ですが、右手の山側に爆弾跡が数多く残っています。

 

 

 

 

なお大浦油槽所に隣接して機銃防空砲台が置かれていましたが、5月10日の空襲で機銃1基が毀損しました。

 

機銃砲台の遺構についてはこちらのリンクにて。

 

以上、徳山空襲でした。

 

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[参考文献]

・国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

・徳山市史下巻(徳山市)

・徳山海軍燃料廠史(脇英夫ほか共著 徳山大学総合経済研究所)

・徳山要港防備図でたどる周南の戦争遺跡(工藤洋三)

・アメリカが記録した山口県の空襲(工藤洋三)