今日は加計呂麻島北西端の実久(さねく)地区を訪問します。
砲台配備図で見ると青矢印の所です。
実久地区に陸軍奄美大島要塞「実久砲台」の工事が始まったのは大正10年(1921年)8月でした。ところがワシントン軍縮条約により太平洋上の島嶼における要塞化は禁止とされたため、わずか5か月で工事中止(大正11年3月31日)となりました。
昭和期に入っても工事は再開されませんでしたが、その後の国際情勢の悪化に伴い、昭和15年(1940年)8月に克式十五糎加農2門が配備されることになり、翌昭和16年11月には奄美大島要塞に準戦備が下令、重砲兵聯隊第1中隊が実久地区に進出して陣地を構築しました。
同年12月8日に大東亜戦争が開戦。戦時下においても継続して陣地が置かれましたが、戦争末期の昭和20年(1945年)のには米軍の上陸に備えて海軍の大島防備隊も同地に進出し陸海共同で守備につきましたが、上陸されることなく終戦を迎えました。
実久地区の砲台/陣地跡は武装解除後からほぼ手つかずのまま現在に至っていますので、数多くの遺構が残っています。ただ、陸海両軍が陣地を構築しましたので、遺構が陸海どちらの手によって作られたか分からない物が多いのですけどね(^^;
いずれにせよ本カテゴリーは「奄美大島要塞」ですので、陣地跡はさらっと流して「実久砲台」を取り上げていきます。
それでは実久砲台の簡単な履歴を掲載します。
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◆起工:大正10年(1921年)8月11日
◆工事中止:大正11年(1922年)3月31日
◆配備予定火砲:七年式十五糎加農→四五式十五糎加農 4門
◆実際の配備:克式十五糎加農 2門 ※昭和15年(1940年)8月~
◆砲座標高:102.20m/110.20m
◆任務:大島海峡西口の防御
◆工事中止後の増改築(災害復旧費および修繕費にて実施):
・昭和2年度(1927年)、右砲側庫「べトン」完成、貯水所増築
・昭和5年度(1930年)、繋船場増築
・昭和9年度(1934年)、観測所増築、火薬支庫増改築
◆奄美大島要塞の概略はこちら→→→
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実久地区の遺構地図です。
赤字が砲台関連の遺構ですが、砲台は実久集落の西方、標高100~110m付近に構築され、その後方に関連施設、集落内に監守衛舎が置かれました。
青字は砲台以外の遺構となりますが、遺構の名称は瀬戸内町の調査報告書『瀬戸内町内の遺跡』に従っています。
それでは遺構を見に行きます。
加計呂麻島の瀬相港から30分ほど車で走ると実久集落に到着します。地図に描いた黒線の道を歩いて探索しますが、まず最初に現れるのが監守衛舎です。
監守衛舎はコンクリート塀で囲われた中に建っていますが、安脚場砲台や西古見砲台などに残る監守衛舎も同様の造りとなっています。これは毒蛇のハブが入ってこないように設けられた物であり、『現代本邦築城史』には「本要塞の施設に於て他要塞に其の類を見ざるは毒蛇に対する処置にして、之が為監守衛舎の周囲に防蛇用のコンクリート製囲墻を設けられたるものあり」と書かれています。
コンクリート塀を内側から。
立哨台かな?
立哨台に上がって見ていますが、草木に覆われることなく素晴らしい状態です。定期的に清掃されているのでしょうね。
どうやら戦後は幼稚園として使われていたようです。
監守衛舎をヨリで。
砲台は常に部隊が駐屯しているわけではなく、平時は施設の管理・警備を行う兵員が詰めているだけとなりますが、その兵員が寝泊まりする場所が監守衛舎で、通常の住居と同様に寝室、浴室、炊事場、便所があります。
実久の監守衛舎は幼稚園として使われたのでリフォームされていると思われますが、当時の面影がしっかり残っています。
では中に入ります。
便所です。右が小、左の崩れている所が大便室です。
小便器。近日中にレポする西古見砲台の監守衛舎にも同様の便器が残っています。
部屋の全景。
風呂釜。
炊事場です。
勝手口から出ました。壁面のレンガ積みは風呂の焚口ですね。
裏口。右開きの扉があったようです。
コーナーに物置があります。
以上、監守衛舎でした。
次回は軍道沿いに残る遺構を見ながら砲台関連施設に向かいます。
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[参考資料]
「現代本邦築城史」第二部 第十五巻 奄美大島要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)
「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)
「瀬戸内町内の遺跡2」(鹿児島県大島郡 瀬戸内町教育委員会)
「瀬戸内町内の遺跡3」(鹿児島県大島郡 瀬戸内町教育委員会)
「下関重砲兵聯隊史」(下関重砲兵聯隊史刊行会)