後編で紹介するのは古城山山頂直下の堡塁と、山頂に置かれた砲台左翼観測所です。

 

見取図を描きましたので掲載します。

 

連絡路を歩いて堡塁手前で斜面を見上げると排水溝が目に入ります。

 

古城山堡塁に到着です(・∀・)

 

右斜め上方より見てみます。

 

次は左斜め上方。

 

こんもり盛り土された周囲には塹壕を巡らして射撃ができるようになっています。盛り土の下には掩蔽部が1つ設けられており、その前には貯水所があります。設備はこれだけなので、堡塁と言っても本当に小規模ですね。

 

掩蔽部です。

内部には入れませんが、埋められる前に入った方々のブログを見ると2部屋構造になっているようです。ただすごく狭いみたいで。

なお史料には弾薬庫及び火砲掩蔽部と書かれていますが、ここには戦時下において機関砲4門が配備されることになっていました。ただ、日露戦争時においても備砲はされなかったようです。

 

掩蔽部の正面にコの字型配置の石垣があります。これが貯水所ですが、床面には丸井戸や3点濾過槽があったと思われますが、埋められてしまったのか確認できません。

 

掩蔽部と貯水所の位置関係はこんな感じ。

先程載せた貯水所の写真は2月、これは9月撮影。やはり繁り方が違いますね。

ちなみにこのスペースを兵員の集屯所としたようです。

 

塹壕を左回りに歩きます。

谷側は緩やかな下り斜面、内側に石積みで歩兵胸墻が設けられています。

 

胸墻の手前が一段高く盛られています。こう言うのって踏垜って言うのかな?

これは全周に亘って設けられていますが、敵接近時には兵員が銃で射撃したり機関砲を用いたりすることになっていました。

 

塹壕を歩いて盛り土の真裏まで来ました。ちょっと広めになっています。

 

4コーナーから最後の直線に入りました(笑)

 

ゴールして振り返って見てます。

 

堡塁はこれで終わりなので古城山山頂の観測所を見に行きます。

なおこの観測所は堡塁の付属物ではなく、古城山砲台の左翼観測所だと推測しています。『日本築城史』には両翼に観測所が置かれたことが記されていますので、これが左翼側の物となりますね。

 

階段が2つありますが、1つは携帯電話の電波塔に入るために後世に設けられた物のようですので、もう1つの階段を上がります。

 

電波塔の脇を進みます。

って言うか古城山は石垣が多く残っていますが、元々山城があったのでその名残なのでしょう。

 

さらに歩くとクネっと曲がり...

 

石垣に挟まれた階段をあがると...

 

観測所に到着です。

 

ここからは2月の写真にて。残念ながら内部は土で埋もれています(・_・;)

 

見ての通り関門橋が設けられている関門海峡最狭部の早鞆瀬戸に背を向けていますが、これは古城山砲台の射撃の首線が海峡入口から周防灘方面に設定されていたためです。

 

観測所後方から前方。先に見える景色は門司の田野浦です。

 

観測所を右斜め前から見ています。

 

今度は左斜め前。

 

写真には観測所両側に凸の形をしたコンクリート構造物が写っていますが、これの用途がよく分かりません。観測所から見て均一に配置されていますので当時物だと思いますが、、、。

 

凸の頭頂部にボルトが2本露出しています。

 

観測所前方にコンクリート構造物がありますが、中を覗いたら水が溜まっていましたので貯水槽ではないかと。こちらは戦後物かもしれませんね。

 

以上、古城山砲台および堡塁でした。

 

門司城跡の碑と...

 

砲台の射撃の首線だった周防灘方面の景色を眺めてお別れです。

 

==========================

[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「工兵方面より 古城山保塁建築の件」(Ref No.C03023041600 アジア歴史資料センター)