2年前に書いた記事があまりにも簡単に書き過ぎたので、この度書き換えることにしました。とは言え、あらためて書くほど遺構は残っていないのですけどね(^^;

 

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北九州市門司区の北西端にそびえる古城山(こじょうさん、標高175m)には、江戸時代初期まで豊前国の門司城が置かれていましたが、明治期になると大日本帝国陸軍の海岸防御事業の一つとして、下関要塞の砲台と堡塁が築城されました。

 

砲台と堡塁の簡単な履歴です。

 

古城山砲台

◆起工:明治21年(1888年)2月22日

◆竣工:明治23年(1890年)6月7日

◆備砲:二十四糎臼砲 12門(明治25年4月備砲完了)

◆砲座:5砲座(各2門)、2砲座(各1門)

◆設置標高:110m/121m

◆除籍までの経過:

・大正2年(1913年) 廃止の予定となる

・大正15年(1926年)4月14日 全部除籍

 

古城山堡塁

◆起工:明治27年(1894年)10月12日

◆竣工:明治28年(1895年)10月31日

◆備砲:機関砲 4門(戦時のみ備砲する計画)

◆設置標高:158m

◆除籍までの経過:古城山砲台に同じ

 

◆下関要塞の概略はこちら→→→

 

古城山砲台は、周防灘から下関海峡東北側出入口より侵入せんとする敵艦に対して、対岸の火ノ山砲台と協力して遠方から射撃を行い撃退することが任務でしたが、海峡内に侵入された場合には、火砲の向きを変えて下関港・大瀬戸方面に射撃することも想定されていました。

ちなみに、配備された二十四糎臼砲は砲弾を撃ち上げる曲射砲で旋回板に据え付けられていましたので、クルクル回して360度射撃が可能でした。

 

一方、古城山山頂に置かれた古城山堡塁、古城山砲台および門司砲台を攻め落とさんとする敵上陸兵を撃退するために設けられました。堡塁としては非常に小規模で、戦時下に機関砲4門を用いて近接戦闘を行う陣地でした。

 

今書いたことを空中写真で示すとこんな感じ。矢印は射撃方向となります。

 

古城山砲台・堡塁および門司砲台は大正末期に廃止となりましたが、昭和6年(1931)には、門司市が古城山の中腹から山麓にかけて陸軍省より土地を借り受けて市営公園を設立しました。その後大東亜戦争時には防諜を理由に市民の立ち入りが禁止され公園は荒廃しましたが、戦後は旧軍用地を中心に和布刈公園として再開発が行われました。水族館、ロープウエイ、国民宿舎などが建てられて賑わいを見せましたが、現在それらは廃止されています。

 

ところで1953年発行の『公園緑地 九州特集号』には、「計画の大要は旧軍時代の登山道を改修して山頂近くの砲台場迄の自動車道を整備し砲台跡は遺蹟として極力その型体の保存を計ると共に…(以下略)」と書かれていますが、残念ながら遺構の大半は破壊されてしまいました。実に惜しい...。

 

古城山の遺構の残り具合ですが、砲台からやや離れて古城山山頂に配置されていた左翼観測所と堡塁については生き残っています。

 

昭和22年(1947年)の空中写真にいろいろ書き込みました。

 

写真を見て推測される営造物を示しています。黒背景の黄字の3つが遺構として現存している物となります。なお黄色の点線は史料に記載の建物跡です。さらに右下に写る平坦地に建物跡と思しき物を確認しましたので合わせて記載しました。

なお青の点線は遊歩道でこれ以外にもいくつかありますが、そのほとんどが廃道のようになっています(・_・;)

 

それでは現地に向かいます。関門橋を横目に進み、、、

 

空中写真に書いた「軍道(今は道路)」を上がっていくと頂上広場の駐車場に到着です。

地形も当時とはだいぶ変わっていますが、左を上がった所に砲座が並んでいたと思われます。

 

当時物の臭いがプンプンする階段をあがりますw

 

砲座周辺はただの原っぱです。

 

ちなみに砲座は土塁で囲んだすり鉢状で、後方通路からトンネルを通って砲座に交通するようになっていたようです。弾薬庫も地下に置かれており、砲弾は揚弾機で上げていたのでしょう。近隣の砲台では老ノ山砲台と似た造りだったのかな。まぁ老ノ山も壊されているから分からないんですけどね(^^;

 

砲座の右端に来ました。奥に見える尖塔はパゴダです。

 

以前国民宿舎があった場所は更地となっています。砲座のあった場所から一段低くなっていますが、史料の見取図と照らし合わせると、ここに右翼観測所があったと思われます。

 

斜面を見るとレンガの残骸が残っていてときめきます(*´Д`)

 

八大龍王神。この裏に遊歩道らしき道を見つけたので進んだところ...。

 

少し下ると平坦地になっており、まず井戸が目に入りました。

 

そしてコンクリートの床。どうやら建物跡のようです。

 

反対側からも見てみます。

 

史料の見取図には書かれていませんでしたが当時物かどうか、、、。それっぽくも見えますが、コンクリートに塩ビのパイプをかましてる瓦礫もあるのでやはり違うか。

 

侵入防止柵の杭もありましたが、、、。

 

以上で砲台周辺はお終いです。

次は堡塁と左翼観測所に行きますのでココから上がっていきます。

 

山頂まで遊歩道になっていますが、おそらく最初の部分は戦後に作られた道で、途中から当時の連絡路を遊歩道として整備したのではないかと思われます。元々の連絡路は下記写真の箇所にて折り返して下る道になっていたようです。(空中写真にもそのように書きました)

 

ちょっと下ってみると九十九折となっていました。

 

遊歩道として整備されているものの最近では通る人がいないのかだいぶ荒れていますが、しばらく進むと陸軍境界標石が現れました。

 

こんな感じで道沿いにあります。

 

他にも残っているかと思いましたが確認したのはコレ1本でした。この後遊歩道(らしき道w)は複雑に分岐して埒が明かなくなったので最初の連絡路に復帰、堡塁跡を目指すことにしました。

 

ここで前編を終了します。続きは後編にて。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「工兵方面より 古城山保塁建築の件」(Ref No.C03023041600 アジア歴史資料センター)