今日は昭和11年(1936年)に起こったニ・二六事件の首魁のひとり、磯部浅一の故郷である長門市油谷(ゆや)を訪れます。なお訪問したのは2年前ですので、現状とは異なる所があるかもしれません。

 

場所はこちら。

 

長門市油谷は、向津具(むかつく)半島と本土に挟まれた油谷湾一帯に広がる地域で、すっかり人気スポットとなった赤の鳥居が並ぶ元乃隅神社(もとのすみじんじゃ)も油谷にあります。長門市に編入される前の油谷町はいくつかの村が合併した町でしたが、その内のひとつである菱海村(ひしかいそん)が磯部浅一の故郷でした。

 

故郷には「いそべの杜」として磯部浅一之碑と記念館が置かれています。

 

昭和維新烈士 磯部浅一之碑です。

 

 

建碑之記。向かって右側。

 

向かって左側。

 

碑文を文字に起こします。なお読みやすいように句読点や( )内に西暦表示を入れています。

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昭和天皇の世紀、十一年(昭和11年、1936年)二月、陸軍の若手将校の一部が昭和維新を標榜して武装決起した。史書に残るニ・ニ六事件である。

 

この事件の首魁のひとり磯部浅一は、明治三十八年(1905年)四月一日、朔風の吹き抜ける旧菱海村河原のこの地に生まれた。幼少から神童の誉れ高く、済美尋常高等小学校卒業ののち広島陸軍幼年学校、更に陸軍士官学校に進み、郷党の興望を担う青年将校となった。

 

多くの部下の生死を握る立場となった彼は、多くの兵士から凶作続きで疲弊した農村の苦しみを聞き、日本の前途に暗い想いを抱き始めた。昭和初期の日本は空前の経済不況、加えて政界財界は無力・無策 軍官僚も派閥抗争に終始し、国民感情は閉塞感に満ち満ちていた。

 

そんな状況の中で浅一は「日本改造法案大綱」に出会い、急速に革新思想に傾斜し、若手将校の中に同憂の士を求めて突き進んで行った。

浅一ら青年将校はかくして「二・二六事件」を惹起し、尺余の雪を蹴って政府、軍部の拠点を襲撃し占拠し、要人を死傷させ 日本全土を震撼させた。独断で千五百人の兵士を動員したクーデターは四日ののち反乱軍として軍主流派によって鎮圧された。

 

浅一ら幹部将校は囚われの身となった。獄中自らを「菱海入道」と号した浅一は故郷に想いを馳せながら獄中記を残した。事件から一年半経った昭和十二年八月十九日、陸軍軍法会議で死刑の判決を受けた浅一は、最愛の妻登美子の黒髪一握りをポケットに入れて銃口の前に倒れた。憂国の情に身を焼き尽くした三十二年の生涯であった。

 

平成の私達は武力によるクーデターを決して容認しない。だが蓋棺ののちも評価が定まらない二・二六事件と磯部浅一の存在は否定しようもない事実である。輝く新世紀を前に再びこのような事件が発生しないことを祈念しつつ、日本近代史に名を残したこの事件の明らかならざる全貌を解明し、その結実を油谷町のこの地から全世界に発信したい。建碑はその誓いである。

 

撰文 重中十士明

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二・二六事件で処刑された磯部浅一さんのことは、旧菱海村民にとって衝撃的な出来事でした。国家反逆の徒、いや義に殉じた耿介の人・・・・・・・・。

当時議論は村内を二分しました。浅一さんは昭和二十年(1945年)九月、大赦令によって復権を遂げられていました。しかしその事実は敗戦の混乱によって殆ど世間に知られていませんでした。

二・二六事件の評価は後世の後究に譲るとして、私達は、心に深い傷を負われた磯部家の苦衷を察して、語られることの少なかった浅一さんの霊を慰める機会を窺っていました。幸い今回、磯部家から用地の提供を受けたのを好機に建碑を計画したところ、地域の多くの方々からご賛同とご支援を賜り、ここに鎮魂の碑を見ることができました。感懐一入であります。

いま碑を見上げ、「耿介の人」磯部浅一さんを広く世間に知らしめる思いを強くしています。地域の皆様の温かい志に深く感謝申し上げます。

 

平成十一年(1999年)十一月十五日

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写真が飾られています。

 

磯部浅一記念館です。

 

鍵がかかっており入れませんでした。訪問したのは2021年ですが、訪れた方々の書き込みを見ると以前から入れなかったようですので、開館していないのでしょう。

 

内部を窺ってみましたが、展示物は少なく、椅子や机が詰め込まれていて倉庫のようになっていました。

 

以上、いそべの杜でした。

 

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