※2023年1月16日追記:2022年夏に開催された「仙崎引揚展」の写真を追加しました

※2023年9月21日追記:2023年9月から開催の「マンガでひもとく引揚げ展」の写真を追加しました

 

今日は戦後の引揚港となった長門市仙崎(せんざき)を訪れます。

 

 

まずは「引揚げ」について簡単に説明します。

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昭和20年(1945年)8月15日に終戦の詔勅が発せられ、満州事変から端を発した十五年戦争に終止符が打たれることになりました。

終戦に伴い外地にいた日本人約660万人(軍人/軍属約353万人、一般民間人約300万人)の復員・引揚げが始まりましたが、当初は各省庁が個別に引揚援護を行い非効率で統制を欠いたため、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の指示に基づき厚生省が主管することになり、引揚者が上陸する引揚港を指定して各港に地方引揚援護局を設置しました。当初は浦賀・舞鶴・呉・下関・博多・佐世保・鹿児島の7局と横浜(浦賀)・仙崎(下関)・門司(博多)の3出張所が置かれましたが、のちに18ヶ所に増えました。

 

引揚げ者の輸送は、旧日本軍の艦船や民間船舶のみならず米国から輸送船などを貸与して行われました。港に到着した引揚者たちには伝染病蔓延防止のための厳しい検疫が課せられましたが、上陸後は無料の宿泊所や食事が提供されました。その後引揚証明書を受領し、居住地までの汽車代を受け取って故郷に帰っていきました。

 

※2023年1月16日追加:

仙崎引揚展で展示された佐世保港に上陸した引揚者の引揚証明書

 

引揚者は、引揚事業開始から4年経った昭和24年(1949年)末までに残留邦人の9割以上となる624万人が帰還、30年後の昭和51年(1976年)末までに629万人が帰還しました。地域別にみると、軍人/軍属の引揚者310万人のうち中国からの引揚が約104万人と最も多く、一般民間人318万人のうち満州からの引揚者が100万人を越えました。

 

一方、終戦直後の日本には韓国・朝鮮人が200万人余り居ましたが、帰国を希望する者たちが港に押し寄せ混乱を招きました。そこで引揚船の帰り便を使用して送り出したり宿泊所を設けるなどの対応が取られました。昭和21年(1946年)3月末までに130万以上が帰国しましたが、1/4ほどの人たちはそのまま日本に残留しました。

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「引揚げ」に関する全体の概要を述べましたので、続いては仙崎港における引揚げを書いていきます。

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政府が厚生省を主管として引揚げ業務を整備する以前、山口県では下関と仙崎に掩護事務所を置き、仙崎港にて引揚者の受入れ業務を進めていました。本来なら下関港を使用するのが便利ですが、関門海峡は米軍が撒き散らした機雷のため安全な航行ができなかったため、仙崎港が引揚港となったわけです。

 

昭和20年9月2日、旧関釜連絡船の興安丸が初めての引揚者7千人を乗せて釜山から仙崎港に帰ってきました。大型船は桟橋に着岸できないので、引揚者は小型船に乗り換えて上陸しました。

上陸後、旅路の疲れで動けない者には寝床や食事が提供されたり医療看護の手が差し伸べられましたが、元気な人たちは正明市駅(しょうみょういちえき、現在の長門市駅)から臨時列車に乗って下関駅で下車、九州線や山陽線に乗り換えてそれぞれの故郷に帰っていきました。

 

最初の到着から11日間6往復で3万人が仙崎に引き揚げてきましたが、在日韓国人・朝鮮人の送出しも並行して行われました。

10月以降米軍が仙崎に駐屯するとともに引揚者の防疫対策が強化され、11月に地方引揚援護局が下関に開庁、仙崎はその出張所となりました。

12月になると民間船3隻が引揚船として加わり、翌年には米軍から小型船艇の貸与も受け輸送能力は増加しました。

昭和21年(1946年)8月以降引揚は下火となり、8月末に下関引揚援護局は廃庁、10月に仙崎出張所が引揚援護局に昇格しましたが、この時点では引揚げ業務は既に終了しており、同年末には閉鎖となりました。

 

昭和20年9月から昭和21年10月までの1年余りの期間において、仙崎では約41万4千人の引揚者が上陸しましたが、合わせて約34万人の朝鮮人を送還するなど、全国有数の引揚港として地域を挙げて引揚事業を支えました。

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それでは仙崎を訪れます。

 

引揚げ事業が行われていた当時は仙崎町として大津郡に属していましたが、昭和29年(1954年)に近隣町村と合併して長門市が発足、仙崎町は廃止され長門市仙崎となりました。

全国的に知名度がある場所ではないかもしれませんが、大正末期から昭和初期にかけて活躍した童謡詩人の金子みすゞの故郷であることから、記念館、公園、街頭に掲示される彼女の詩など、街の至るところでみすゞさんに触れることができます。

 

仙崎は朝鮮との距離が近く、古来より往来が盛んでした。港の前面には青海島が天然の防波堤をなしており、湾内には1万トン級の船が数多く繋留できたことから、戦時中は軍需物資の輸送基地として、陸軍需品本廠唐津出張所仙崎集積所や仙崎在勤海軍武官府が置かれました。

 

仙崎の地図を掲載します。四角で囲った青字はこの後紹介する場所となります。

 

まずは忠魂碑が置かれた青海島の王子山公園から仙崎の街並みを眺めてみます。なお黄色の矢印が引揚者の上陸地となります。

 

青海島と本土の間に流れる水路の幅は最狭部で100mに満たない距離ですが、昭和40年(1965年)に架橋されるまでは渡船での往来でした。

 

カメラを左に向けると仙崎湾が広がっています。

 

右は深川湾です。

 

興安丸(7079トン)のような大型船は桟橋に着岸できませんでしたので、湾内に投錨後小型の揚陸船(シャトル船)に引揚者を移して上陸させました。

なお白矢印の弁天島は小さな島で、現在では戦後に埋め立てられた人工島に取り込まれています。

 

=====2023年1月16日仙崎引揚展の写真追加=====

引揚業務従事者の手記を見ると上陸の様子がよく分かります。

 

興安丸入港後、引揚者は揚陸船(シャトル船)に乗り換えて上陸。

 

上陸風景。

 

米軍のLSTも動員されました。

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王子山の展望地にはみすゞの詩が掲示されています。今も昔も王子山から町見れば、町が好きになるほど綺麗な景色かと(^^)

 

日清戦争、北清事変、日露戦争における従軍者の忠魂碑が立っています。

 

ちなみに青海島の西側に聳える高山には戦時中の防空監視哨が残っています。以前紹介しましたので、ご興味ある方はこちらをどうぞ。

→→【山口県の戦争遺跡100~高山防空監視哨(長門市青海島)

 

 

引揚上陸跡地に来ました。

 

説明看板。

 

上陸跡地をヒキで。

 

引揚者は揚陸船でこの埠頭に上陸し、税関職員による荷物の点検、検疫所においてDDT噴霧消毒や予防注射などを受けましたが、罹患者は診療もしくは隔離されました。また埠頭には相談所や金銭両替所、湯茶接待場などが設けられていました。

 

=====2023年1月16日 仙崎引揚展の写真追加=====

 

上陸した桟橋での様子

 

復員兵の上陸

 

DDTの噴霧を記した手記

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なお説明看板にある興安丸についてはこちらの記事でまとめています。合わせてご覧ください。

 

 

続いて、道の駅センザキッチンに向かいます。

 

ここにもみすゞさん。

 

引揚記念碑は道の駅駐車場の一角に置かれています。

 

 

 

それでは街を散策します。

当時仙崎駅の南側に、引揚者の一時的な宿泊所や帰国する朝鮮人の収容所が設けられていました。現在では民家や学校となって姿を消していますが、街を歩いていると木造の建物を数多く見かけます。

 

仙崎駅です。

 

正明市駅(しょうみょういちえき、現在の長門市駅)から伸びる引込線で、昭和初期に貨物駅として開業しました。戦後の引揚開始時には大量の旅客を捌くには狭小でしたので、引揚者は3キロほど離れた正明市駅まで向かいましたが、引揚2年目の4月以降はプラットホームの伸長や待合室を建設するなど整備されました。

 

駅舎のギャラリー。引揚関係の写真の展示があるようですが閉まっていました(-_-;)

 

ホームの先の線路は終点です。

 

仙崎駅から正明市駅(現在の長門市駅)まで足を延ばしてみました。

 

※2023年1月16日追加:仙崎引揚展で展示された正明市駅の駅名標の写真

 

長門市の代表駅で、東に行くと萩から島根方面、西に行くと下関に通ずる山陰本線、北は仙崎線、南は美祢市を通って山陽本線厚狭駅に繋がる美祢線が乗り入れています。なお長門市駅に改称されたのは昭和37年(1962年)です。

上陸した引揚者はこの正明市駅からそれぞれの故郷に向かいましたが、即日出発できない者に対し神社、学校、一般民家を開放して仮の宿泊所としました。

 

また神社は引揚者の宿泊だけではなく、引揚援護事業を行う事務所になった所もありました。それがこちらの円究寺です。

 

寺には戦時中に開設した託児所がありましたが、その建物が引揚事業初期に援護局の事務所として使われました。その後保育園となりましたが、今はなく跡地となっています。

 

ちなみに援護局の事務所はその後、仙崎国民学校(現仙崎小学校)の一角に庁舎を建設して移転しました。庁舎は宇部市厚東に置かれた陸軍弾薬集積所の建物を移築して建てられましたが、この弾薬集積所については以前紹介しましたのでご興味ありましたらこちらからどうぞ。→【山口県の戦争遺跡㊼~厚東の陸軍弾薬集積所(宇部市)【前編】

 

次は極楽寺です。

本堂は戦時中陸軍の暁部隊が分宿しましたが、戦後には医師と看護婦が常駐して引揚者に医療が提供されました。

 

極楽寺の入口には金子みすゞが詠んだ詩が掲示されています。

 

こちらの遍照寺も引揚者に寝床を提供しましたが、この寺には金子みすゞのお墓があります。

 

 

以上で引揚げに関する紹介はお終いですが、仙崎にお越しの際はぜひ金子みすゞ記念館にお立ち寄りを。

記念館はみすゞ生誕100年に当たる平成15年(2003年)、みすゞが幼少期を過ごした書店金子文英堂跡地に開館しました。

 

みすゞの代表作「私と小鳥と鈴と」の一節を口ずさみながらお別れです。

 

以上、仙崎引揚港でした。

 

海外上陸引揚げ跡地の場所はこちらをクリック→→→

 

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※2023年1月16日追記:

仙崎引揚展は2022年8月19日から9月20日にルネッサながとで開催されました。

 

 

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※2023年9月21日追記:

2023年9月から開催の「マンガでひもとく引揚げ展」を観覧しました。

 

昨年9月1日にリニューアルオープンしたヒストリアながとへ。

 

著名な漫画家たちが、戦後の中国での苦しい暮らしや引揚げの様子を、克明にマンガで伝えてくれています。

 

展示会は新宿の平和祈念展示資料館とコラボしています。マンガのイラスト以外にも引揚げに関する物が展示されています。写真は仙崎に上陸した方の引揚証明書です。

 

2023年12月10日まで開催されていますので、ぜひ仙崎観光と合わせて訪問してみて下さい。

 

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[参考文献]

「長門市史 歴史編」(長門市史編集委員会∥編 1981)

「さらば仙崎引揚港」(萩原 晋太郎∥著 1985)

「仙崎引揚援護局史」(加藤 聖文∥編集、2001)