大向(おおこう)防空砲台は、呉市の倉橋島南西部に設けられました。地図で場所を確認します。

 

簡単な履歴は以下の通りです。(呉海軍警備隊戦時日誌、引渡目録より)

 

(防空砲台)

◆竣工:昭和12年(1937年)11月

◆主要装備:3年式8㎝高角砲 3門、110㎝探照灯1基、90式二型聴音機1基

◆所属:呉海軍警備隊第二砲台群

 

(防空砲台から照聴所に変更)

◆昭和19年(1944年)3月、高角砲3門を撤去し照聴所として残置

◆装備:110㎝探照灯1基

 

呉周辺の防空砲台は、昭和12年9月に2ヶ所、11月に3ヵ所が完成しましたが、大向はそのうちの1つです。昭和16年11月20日に開隊された呉海軍警備隊の第二砲台群所属として大東亜戦争に突入しましたが、戦争後期の昭和19年3月以降、3年式8㎝高角砲は撤去・移設となって防空砲台から照聴所に変更され、探照灯のみ配備した探照灯台として終戦まで戦いました。

 

砲台の見取図を描きましたので掲載します。

 

標高170m付近の狭い尾根上に砲座や指揮施設、その北側の標高235mピークに照聴施設が置かれていたようです。

現在は岳浦山(標高491m)の山頂に向けての登山道が砲台施設の間を抜けていきますので、非常にアクセスしやすい場所となっています。とは言え登山はともかく倉橋島南西部まで行くのが遠いんですけどね(^^;

 

では遺構を見に行きますが、砲座周辺の見取図を拡大してみました。

 

大向の遺構の特徴は、コンクリート構造物はごく僅かで、ほとんど石組みで造られていることです。

砲台や見張所跡を探索すると多くの場所で兵器を据え付けたコンクリート製台座が残っていますので、これは探照灯、これは聴音機などと分かるのですが、大向ではその台座も一切確認できませんでしたので、見取図には場所を推定して記載しています。

 

登山開始。いかにも切り開きました的な削平地を横目に進みます。

 

視界が開けて絶景ポイント(・∀・)

矢印が柱島ですが、奥に見える稜線は屋代島(周防大島)です。

 

絶景ポイントからすぐ、砲座Aの外周に設けられた石垣が見えてきます。

 

砲座Aの内部を見下ろしています。床面の凹みは高角砲の据付位置だと思われます。

 

砲座を囲う胸壁も石材で造られています。元々円形だったと思われますが、胸壁は1/3ほど崩れています。

 

次に向かいますが、道を逸れると激シダ藪です(;゚Д゚)

 

砲座Bです。形は砲座Aとほぼ同じですね。内径約7mほどです。

 

3年式8㎝高角砲は大正5年(1916年)に制式化された高角砲で、戦前築城の防空砲台では数多く配備されていましたが大東亜戦争時には旧式となったため、砲台によっては12.7㎝高角砲などに換装されていきました。ただココ大向では、昭和19年3月に撤去されるまで3年式8㎝高角砲の3門態勢だったようです。

 

床面の高角砲据付位置の凹みに入って見ています。凹みの内側も石組みされていますが、コンクリート遺構は確認できませんでした。

 

同じく3年式8㎝高角砲を配備した水谷山防空砲台の砲座では、円形に縁取られたコンクリートの残骸がありましたので、同様の物が残っているのかと思いましたが...。

 

次は砲座のような円形をした窪地です。見取図では「砲座?」としています。

 

仮にコレを砲座とすると4つの砲座が存在することになり、配備された高角砲3門に対し砲座が1つ多くなります。予備の砲座だった?4門配備が3門に減った?とかも考えられますが確証はありません。

コレを砲座として捉るとキレイに3門並ぶし、少し離れた場所にある砲座Cは別用途だったとした方がしっくりくるんですけどね(^^; 

 

 

「砲座?」をよく見ると、内側には石積みも見られますが床面に丸い凹みはありません。さらに砲座AやBと比べると内部が深く窪んでいるように見えます。もしかしたら高角砲ではなく探照灯や聴音機を置いたのかもしれませんね。例えば防空砲台から照聴所に変更された際235mピークに置かれていた探照灯をこちらに移設したとか、それとも竣工時に探照灯や聴音機をココに置いたとか、、、。

 

考えてもキリがないので先に進みます。

「砲座?」の窪みのすぐ近くに円形に石積みされた掩体があります。見取図では測距儀の位置として記載しています。

 

中央が少し窪んでいますが、どうやら床面はコンクリートだったようです。

 

石積み掩体の西側が登山道ですが、その脇にが開いています。

 

穴を覗くと明かりが見えましたので、登山道の左側に下りてみると横穴壕のようになっていました。見取図では防空壕?としました。

地面に開いた穴は崩落してできたように思われますので、そうなると道全体が崩れないか心配ですね。

 

測距儀位置の北東下に平坦に造成された場所があります。一方は山の斜面、もう一方は石垣を組んで遮蔽壁のようになっていますが、この平坦地を指揮所としました。

 

とは言っても、基礎や瓦礫など建物があったことを示す痕跡はないんですけどね。

 

あったのはサクラビールの瓶、、、。

 

コンクリートの階段?が残っています。どう使っていたのよ?w

 

迷彩でしょうか。緑に塗られていたように見えます。

 

指揮所の平坦地は北東と南西側の2ヶ所に開口していますが、南西側に進むと石垣で囲われた方形遺構があります。

 

方形遺構は砲座かもしれない窪地の真下にありますし、ここから砲座AやBに道が繋がっているので弾薬置場と推測しましたが、それにしては少し狭いような気もします。

 

指揮所の北東側を進むと、やせ尾根に埋め込み式水槽が1基置かれています。

 

水槽の西側直下に削平地がありますので下りてみました。

 

建物があった痕跡(瓦礫)が散乱していたので、見取図ではこの場所を兵舎地としました。ただ大向には80名ほど兵員がいたようですので、それだけの人数に対してこの敷地は狭すぎる感じがします。

そこで他の施設で見られる兵舎+烹炊所がセットとなった棲息施設が別にあるのではないかと谷筋を調べてみましたが、発見には至りませんでした。

 

兵舎地でないとするなら、この削平地は指揮所、先ほど指揮所とした場所は弾薬庫と言う見方もありだったり、、、。

 

兵舎地から少し山を上がると砲座Cがあります。

 

土塁を円形に設けて外と内の両側に石材を積んで補強しています。これまで見てきた他の砲座も崩れていますが基本はこの形だったかと。

 

砲座入口に掲げられている看板。よく意味が分からないのですが(^^ゞ

 

砲座Cの内部です。

砲座AやBと同様に床面に丸い凹みが確認できます。なお胸壁は1/3ほど失われていますが、すべての砲座がそのようになっていますので、元々円形に組まれていなかったのかも?と思えてきます。

 

苔のおかげで迷彩っぽく見えていい感じです(・∀・)

 

砲座Cの形状や床面の凹みは砲座AとBに共通することからココも間違いなく砲座だと思われますが、それではなぜ1つだけ離れているのでしょうか?

後から増設されたのか、、、と考えたりもしますがはてさて。
 

 

だいぶ長くなってしまいましたのでここで前編を終了。続きは次回。

 

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[参考資料]

JACAR(アジア歴史資料センター)

・呉海軍警備隊戦時日誌(Ref.C08030470300~C08030475700)

・徳山海軍警備隊戦時日誌(Ref.C08030476000~C08030476200)

・兵器目録(C08011396900)

・昭和20年9月1日 兵器軍需品施設等目録 呉海軍警備隊(1)(Ref.C08011271900)