今日から萩市の戦争遺跡を見ていきます。

まずは、萩市三見(さんみ)の三田(みた)八幡宮に立つ明治三十七八年戦役従軍記念碑を紹介します。

 

萩市の遺構地図です。

 

三田八幡宮は萩市街地から車で15分ほどの場所にあります。

 

到着です(・∀・)

 

由来

 

【明治三十七八年戦役従軍記念碑】は、この由来を記した看板の後ろにあります。

昭和3年(1928年)10月建設です。

 

裏面には従軍者の芳名が記されています。

 

明治三十七八年戦役は日露戦争のことです。簡単な説明を加えます。

 

【日露戦争(日露戦役、明治三十七八年戦役)】

明治37年(1904年)2月から翌年9月にかけて行われたロシア帝国との戦争で、朝鮮半島と満州の権益を巡る争いが起因となり勃発。朝鮮半島に上陸した大日本帝国陸軍はロシア軍を撃破しつつ朝鮮半島から遼東半島に進撃。8月から開始された旅順攻囲戦では大きな損害を被りつつも翌年1月に陥落させた。一方海軍の連合艦隊は、ロシア艦隊を旅順港に封鎖する作戦を展開するも十分な効果は得られなかったが、陸軍の旅順攻撃により湾内から出てきたロシア艦隊を撃破した。

翌明治38年2月には、18日間に及ぶ大規模な会戦となった奉天会戦において陸軍が勝利、さらに5月の日本海海戦において、連合艦隊が圧倒的な力を見せつけてバルト海からやってきたバルチック艦隊を壊滅させた。

その後アメリカからの講和勧告に対し両国が受諾し、9月のポーツマス条約締結によって講和が成立した。

 

紀念碑の隣には忠魂碑が立っています。

 

台石には錨と星が重なるレリーフが施されています。紀念碑と同じく昭和3年(1928年)10月建設。

揮毫者は「陸軍大将 男爵 田中義一」です。山口県内の忠魂碑など記念碑の揮毫は、義一さんが一番多いです。

 

「田中義一」は江戸末期に萩藩士の息子として生まれました。陸軍軍人として日清戦争に従軍、日露戦争では満州軍の参謀として活躍。大正4年(1915年)に陸軍大臣、大正7年(1918年)に陸軍大将に進級したのち、陸軍を退役して政治家に転身、大正14年(1925年)には政友会の総裁となりました。昭和2年(1927年)に第26代総理大臣に就任しましたが、昭和4年(1929年)に起きた張作霖爆殺事件の責任を取り総辞職、その3か月後に65歳で急逝しました。

 

義一さんです。

銅像は萩市博物館脇の公園に立っています。

 

見るべき遺構は境内に入る手前にありますのでこれにて終了となりますが、せっかくなので参拝していきます。

 

拝殿です。

 

参道には、現衆議院議員の河村健夫氏の記念碑がたくさん立っています。

萩市三見(当時は阿武郡三見村)は河村健夫氏の地元です。

 

萩から宇部に至る地は衆院選における山口3区となります。平成6年(1994年)に3区が設置されて以降の8回の選挙では、すべて河村健夫氏が圧勝している、いわゆる無風区です。ところが先日、同じ自民党で参議院議員の林芳正氏が参院山口選挙区からの鞍替えを表明しました。次期衆院選では保守分裂は避けられない様相。さてどうなりますか。

 

以上、明治三十七八年戦役従軍記念碑でした。

 

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