これまでレポートしてきた下関市から離れて、今日から山陽小野田市と宇部市に残る遺構を見ていきます。
まずは遺構地図を掲載します。
今回は山陽小野田市の厚狭(あさ)護国神社にある「日清戦役凱旋碑」を紹介します。
護国神社の一ノ鳥居から神社境内までは車で上がれますが、凱旋碑は境内前の車道沿いに立っています。
写真は山側から撮っていますので、車で上がってくると右手に見えてきます。
「日清戦役凱旋碑」です。
日清戦役で日本が勝った記念の石碑ですが、戦争の経過について簡単に説明します。
【日清戦争(日清戦役、明治二十七八年戦役)】
明治27年(1894年)7月から翌年4月にかけて行われた清国との戦争で、朝鮮半島の権益を巡る争いが起因となり勃発。開戦後9月に平壌を占領した大日本帝国陸軍は朝鮮半島を北上して清国領土に侵入、11月に遼東半島の旅順要塞を攻略した。
一方海軍の連合艦隊は、9月の黄海海戦にて清国の北洋艦隊を撃破して黄海の制海権を掌握、翌年には山東半島や台湾方面にも戦域が拡大したが、講和を模索する動きとなり、下関での両国交渉の結果、4月17日に日清講和条約(下関条約)が締結されて休戦となった。
なお講和条約に織り込まれた遼東半島の日本への割譲は、いわゆる三国干渉にてフランス、ロシア、ドイツから勧告を受けたため、日本は遼東半島の領有権を放棄、清国に返還された。
正面です。
揮毫者として、「元帥 侯爵 山縣有朋」の名前があります。
下関市の記念碑でも名前をよく見ましたがここでも出てきました。そしてこれからもちょくちょく出てきます(^^)
「山縣有朋」は萩市出身の長府藩士で松下村塾で学びました。奇兵隊軍監として幕府と戦い、明治新政府樹立後は大村益次郎が進めた軍制改革を継承、大日本帝国陸軍の実質的な建設者となりました。陸軍卿、内務大臣を経て、明治22年(1889年)と明治31年(1898年)には内閣総理大臣に2回就任。明治37年(1904年)の日露戦争では参謀総長として戦争指導の中枢を務め、伊藤博文なき後は元老として軍や政界に君臨し続け、大正11年(1922年)、83歳で亡くなりました。
凱旋碑の裏には従軍した兵士の氏名が彫られています。
戦争終結から5年後の明治33年(1900年)5月の建立です。
厚西村有志によって建てられたようですが、厚西村(こうせいそん)は明治22年(1889年)から大正7年(1918年)までこの地に存続していた村です。
厚狭郡に属する村だった厚西村は大正7年に厚狭町と改称、戦後に埴生(はぶ)町と合併して山陽町となり、平成17年(2005年)には小野田市と合併して山陽小野田市となって今に至っています。
では凱旋碑を後にして「厚狭護国神社」に行ってみます。
凱旋碑そばの階段を上がると境内です。
本殿の両側に英霊の墓標が並んでいます。
では厚狭の街並みを眺望してお別れです。
以上、日清戦役凱旋碑と厚狭護国神社でした。
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