「山口県の戦争遺跡」9回目にして初めての昭和期の遺構紹介となります。

 

今回は下関市長府外浦町の関門医療センター前に立つ【軍令部総長伏見宮博恭王殿下飛行御上陸記念碑】(※【上陸記念碑】)をレポートします。

 

背の高い記念碑です。昭和9年(1934年)建立。

後方に関門医療センター、左横に「市立美術館前」のバス停があります。

 

記念碑の前には国道9号線が走っており非常に交通量の多い道路ですが、これまで私も幾度となく走っている道なのに、つい最近までこの遺構が立っていることに気づきませんでした(^^ゞ 景色に溶け込みすぎてるしw

 

縦写真を掲載します。

 

では伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう)殿下について簡単に紹介します。

 

博恭王は皇族であり海軍の軍人です。海軍に入隊後は艦隊勤務の実績を積み、日露戦争(1904-05年)に従軍。その後は出世コースを歩み艦隊司令官などを歴任、昭和7年(1932年)には海軍軍令部長(翌年、軍令部総長に呼称変更)に就任しました。

総長となった博恭王は軍令部の権限を大幅に強化、海軍ツートップの片われである海軍省を凌駕するほどになりました。

昭和16年(1941年)4月に総長を退任するまで9年に亘って実質海軍トップの座にありましたが、退任後も、宮様であり当時海軍でただ一人の元帥でもあり、海軍部内では絶大な権勢を保持し続けました。後任の軍令部総長も海軍大臣も自分側の人物でしたし、海軍のお偉方も何かあればお伺いを立てるのが不文律だったようです。

そんな感じで影の実力者であり、天皇陛下に開戦の決定を迫ったり、戦中には特殊兵器に言及したことが特攻の火付けになったとも言われていますが、戦犯として裁かれることもなく、終戦の翌年に亡くなりました。

 

と言うわけで、ここまで力を持った人だったので【上陸記念碑】が立つわけか。何より宮様ですしね(^^;

 

台座の銅板に、上陸した経緯が書かれています。

 

要約すると、下関で行われた海軍志願兵の徴募状況を視察するために、荒天をついて呉から水上偵察機で飛来して記念碑の立つ目の前の海岸に着水した、ってことです。

 

さらに、離着水の状況や記念碑建設に至る経緯が書かれた銅板も。

 

この銅板に記載されていますが、上陸記念碑の揮毫者は当時の海軍大臣の大角岑生(おおすみ みねお)大将。昭和7年に、陸軍のトップである参謀総長が皇族軍人であったため、陸海軍のバランスを取るために軍令部長に博恭王を推した人ですが、それが仇となり宮様の威光の前に逆らうことができず、結果として軍令部の権限強化の片棒を担ぐことになってしまいました。ある意味、揮毫者としては最適な人物だったかもしれませんねw

 

博恭王が搭乗したフォッカー水上偵察機のイラストがあります。

 

フォッカーはオランダの航空機メーカー。創業者がアメリカに渡って新会社を作ってそちらで開発したのがフォッカースーパーユニバーサル。日本国内では中島飛行機がライセンス生産。同機は民間の旅客機として利用されるとともに、フォッカー式水上偵察機として海軍でも使われました。

 

さて、この記念碑が立つ位置は、本来なら海岸沿いで着水した海面を見通すことができましたが、記念碑の背後は戦後に埋め立てられてレジャー施設のマリンランドができ、閉園後は病院やマンション、商業施設が建設されて今に至ります。

 

空中写真で見てみます。

 

1947年3月12日

※国土地理院・地図・空中写真閲覧サービスよりM114-109を加工

 

1975年2月24日

※国土地理院・地図・空中写真閲覧サービスよりCKU747-C2-10を加工

 

水族館跡地の浜辺から宮様が着水した外浦の海を見ています。(撮影:2010年)

右側に、今は無きマリンホテルが写っています。

 

水族館跡地のくじら館。(撮影:2010年)

水族館は21年前に閉館し唐戸に移転、海響館としてオープンしています。

 

コレ、まだあるのかなぁ(・。・;  (撮影:2010年)

 

最後の方は関係のない話になりましたが、以上で上陸記念碑の紹介を終わります。

 

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