※2024年6月12日、記事書き直し

 

明治維新後、新政府は対馬藩兵を廃止し、鎮西鎮台(のち熊本鎮台)に歩兵2個小隊を対馬に分遣することを命じたのが明治5年(1872)8月のことでした。

対馬分遣隊は厳原旧城内に兵営を構えましたが、明治19年(1886)11月に制定された「警備隊条例」により新たに対馬警備隊が編成され、分遣隊に代わって対馬防衛の任に当たることになりました。

 

発足時の対馬警備隊の編成は、歩兵1中隊(3小隊、117名)と砲兵1隊(46名)、合計175名でしたが、明治21年(1888)には温江、大平、芋崎、大石浦の4砲台が竣工したことで砲兵隊は増員となり、翌22年には司令部も設置されました。

明治27-28年(1894-95)の日清戦争では警備隊に動員が下令されましたが、戦後は陸軍の軍備増強が進められました。明治32年(1899)に対馬警備隊は拡張され、歩兵中隊は警備歩兵大隊に、砲兵隊は対馬要塞砲兵大隊(748名)に改編されました。翌明治33年(1900)には、砲兵大隊の兵営は厳原から鶏知村(現在の美津島町鶏知(けち))に移転、翌年には警備隊司令部もまた鶏知に所在を移しました。

 

明治37年(1904)に開戦した日露戦争で動員されたのち、対馬要塞砲兵大隊は対馬重砲兵大隊に改称されました。

大正9年(1920)8月には対馬警備隊が廃止となり、警備隊歩兵大隊撤廃とともに警備隊司令部は対馬要塞司令部に、同年12月に対馬重砲兵大隊は鶏知重砲兵大隊と改称されました。

 

昭和初期頃の鶏知重砲兵大隊の正門

※「目で見る 対馬の100年」より引用

 

昭和期に入ると、対馬全島に亘って新たな砲台の建設が開始されたことに伴い、昭和11年(1936)に重砲兵大隊は鶏知重砲兵聯隊に昇格しました。

昭和16年(1941)7月、対米英戦に備えて動員が下令されました。各中隊は砲台へと配置に就き、対馬要塞重砲兵聯隊として戦時編成に移行しました。その後大東亜戦争が開戦、対馬防衛の任に務めましたが、昭和20年8月に終戦となり聯隊は解隊、約1,400名が復員しました。

 

聯隊本部

※「目で見る 対馬の100年」より引用

 

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以上、対馬要塞重砲兵聯隊について説明してきましたが、鶏知の兵営跡は戦後に住宅地や学校などが建てられたため消滅しました。当時の壁や門柱が一部残っていますが、以下門柱と記念碑を掲載します。

 

鶏知中学校の敷地に立つ門柱です。3本あったうちの1本で、当時の場所に残っています。(2020年12月撮影)

 

上記の門柱から狭い路地を進むと、対馬要塞重砲兵聯隊跡の記念碑があります。(2021年11月撮影)

 

題字の揮毫は終戦時の連隊長である垣内八州夫大佐です。ちなみに垣内氏は、和歌山市深山地区に立つ「深山重砲兵聯隊跡」の記念碑建立にも携わっています。

なお記念碑の前には2本の門柱上部が残されています。

 

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以上で重砲兵聯隊の説明は終わりですが、今回の記事を書くために史料を検索していたところ、作家・大西巨人に行き着きました。彼は大東亜戦争時に陸軍軍人として対馬要塞重砲兵聯隊に入隊しており、戦後に書かれた彼の代表作「神聖喜劇」では対馬の兵営生活が赤裸々に語られています。同書は未読ですので、ぜひ読んでみたいと思います。

 

以上、対馬要塞重砲兵聯隊でした。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第二巻 對馬要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「対馬砲台あるき放題~対馬要塞まるわかりガイドブック」(対馬観光物産協会)

「対馬要塞物語2」(対馬要塞物語編集委員会)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「国土地理院地図(電子国土web)」を加工して使用

「対馬といふところ」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「美津島町誌」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「対馬島誌 増訂」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「対馬警備隊編制表被定」(Ref No.C09050136600 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「鶏知重砲兵連隊歴史 大正7.6.12~昭和20.10.4」(Ref No.C14111010500 国立公文書館アジア歴史資料センター)