昭和9年(1934年)の「要塞再整理」によって下関要塞は朝鮮海峡系要塞(鎮海湾、対馬、壱岐、下関)の一環となり、昭和10年(1935年)から昭和15年(1940年)にかけて下関要塞領域の各島嶼に砲台が築城されました。

 

砲台の場所および火砲の種類・門数は以下の通りです。

 

【参考リンク】 昭和期の下関要塞の概略はこちら→→→

 

この体制は昭和16年(1941年)12月8日の大東亜戦争開戦後も変わることはなく、下関要塞重砲兵連隊および第21警備大隊などの部隊をもって、関門地区ならびに周辺海域の守りに任じてきました。

 

ところが昭和20年(1945年)になると、対空防御を考慮していない暴露砲台では空襲により喪失する恐れがあったため、「ケ号演習」と称して新しく洞窟砲座を構築して15㎝加農砲を移設することになりました。移設の内容は以下の通りです。

 

新陣地の工事は3月から開始されましたが、5月下旬に要塞火砲は本土に転移する旨の新たな命令が出されたことによって工事は中止となりました。(大島は島内で継続、杖坂山は土質不良で後に吉見に変更)

 

本土決戦を見据えた海岸陣地の構築は「キ号演習」として4月から始まっていましたが、6月下旬以降は、敵の上陸を水際で殲滅すべく下関西岸から北九州沿岸一帯に陣地を構築、要塞火砲の転用(15㎝加農砲のみならず7㎝加農砲も)、そして部隊の新設や動員(第351師団、独立混成第124旅団の新編など)、これに伴う各部隊の戦闘序列や作戦地域の変更、と言った大きな見直しが図られました。

 

その後、敵の空襲のみならず人員・資材・器材・燃料不足等々困難を極めながらも陣地構築や火砲の輸送作業は続きましたが、8月15日に終戦を迎えました。

 

終戦時点での下関要塞火砲の洞窟砲台設営状況は以下の通りです。

 

配置図も掲載します。

 

なお、これらの図表は各種文献を参考にして作りましたが不確かな部分も多く、現存している津和瀬、垂水峠、吉見以外の砲台の場所は想像の域を出ませんのでご了承願います。

また地図の市長区画は当然ながら現在のものです。下関市は今こそこんなに広いですが、元々中北部は豊浦郡でしたからね(^^;)

 

以上のように、本土決戦が迫る中で下関要塞の火砲は分散配備され、各々作戦地域を受け持つ部隊の隷下に入ることになりました。

また、下関重砲兵連隊の主力を中心とした下関要塞守備隊の作戦地域は、6月28日以降下関市、門司市、小倉市の一部に縮小されましたが、新設の独立混成第124旅団が配備を完了するまではこれまで通り陣地構築作業を継続しました。

 

ここまで関門地区の、と言うか下関要塞絡みの本土決戦準備の概略を書いてきました。次からは訪問済みの現存する洞窟砲台の探訪記を書くとともに、砲台があったと思われる場所や陣地の跡を探っていきたいと思っています。

 

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[参考文献]

「現代本邦築城史 第二部 第三巻 下関要塞築城史」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「下関要塞守備隊戦史資料 昭20.11.25」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「第351師団戦史資料 大東亜戦争 昭20国土決戦 昭20.11.25」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「〔15HA〕」(JACAR(アジア歴史資料センター):Ref.C14061066300)

「下関重砲兵連隊史」(下関重砲兵連隊史刊行会)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「国土地理院地図(電子国土web)」