※2024年5月14日書き直し

 

明治4年(1871)に健軍された大日本帝国陸軍は、敵国艦隊の襲来に備えて国土防衛上の沿岸要衝に海岸砲台の建設を進めましたが、その一方で砲台の守備に就く要塞砲兵隊の編成に着手し、明治22年(1889)に砲兵隊の将校・下士官を養成する幹部養成所(のちの陸軍重砲兵学校)を開設したのち、明治23年(1890)に横須賀と下関に要塞砲兵連隊を創設しました。

これ以降各地の要塞には砲兵連隊もしくは砲兵大隊が組織されましたが、これら砲兵隊の兵営は砲台や堡塁から離隔した市街地に置かれましたので、平時に教練を実施するための演習砲台が兵営の近隣に置かれることになりました。

 

下関要塞においては複数の演習砲台が置かれていましたが、古地図に場所を記してみました。

 

中央の青色部分が重砲兵連隊の兵営ですが、史料を確認すると永久築城の堡塁砲台とは別に5つの演習砲台が設けられていたようです。史料の数が非常に少ないため詳しいことは分かりませんが、構築された順に史料の記載をピックアップしてみました。

 

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【丸尾演習砲台】

・砲台名の呼称は「丸尾」もしくは「丸尾山」

・明治26年(1893)4月、演習用砲床据付工事竣工

・明治二十七八年戦役(日清戦争)で観測所を急造

・備砲:二十八糎榴弾砲4門と二十四糎加農4門

・昭和11年(1936)、不要につき二十四糎加農4門を返納

・場所:現在の壇之浦PAの南西

・遺構:介護施設と駐車場建設により消滅

 

丸尾演習砲台における大正9年の二十八糎榴弾砲教練

(「下関市史別巻 しものせき なつかしの写真集」より引用)

 

火ノ山第一砲台(現ロープウエイ乗り場)から丸尾演習砲台跡地(矢印)を見下ろす。

 

丸尾演習砲台に通ずる道沿いに残る陸軍標石。

 

 

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【関山演習砲台】

・明治34年(1901)7月の史料に砲具庫工事の記述あり

・備砲は不明だが、史料では「軽砲演習砲台」の部類として記載

・大正6年(1917)4月5日付にて除籍され、その後は倉庫(作業場)として利用

・大正6年8月に下関市より敷地の一部を午砲所として利用申出、受理される

・跡地は円陵寺が鎮座、管理する墓地が広がっている

 

火ノ山から見た関山演習砲台跡地とその周辺。

 

午砲とは正午を知らせる号砲のことですが、岡山市半田山には午砲台跡(火砲はレプリカ)が残っています。

 

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【隠山演習砲台】

・明治36年(1903)4月、隠山演習砲台敷地として土地買収の伺い

・大正4年(1915)10月27日付で竣工図書

・史料に「軽砲演習砲台」の部類として記載

・場所は不明だが、史料には「生野村の民有地を買収」、「珠数山演習砲台北側旧隠山砲台...」との記載があることから、数珠山演習砲台北側に隣接していたと思われる

・大正6年4月5日付にて各要塞の軽砲演習砲台が除籍となる

・大正末期に下関重砲兵連隊演習砲台の28H砲台が建設されたが、おそらく旧隠山砲台敷地に設けられたと思われる

・跡地は戦後に宅地化
 

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【珠数山演習砲台】

・大正4年10月27日付で竣工図書

・史料に「軽砲演習砲台」の部類として記載

・大正6年4月5日付にて各要塞の軽砲演習砲台が除籍となる

・大正14年1月、数珠山演習砲台敷地として民有地を買収(二十四糎加農砲台分)

・大正14年4月、下関重砲兵連隊演習砲台の新設工事竣工(旧隠山敷地と推測)

・大正15年2月、下関重砲兵連隊演習砲台に二十八糎榴弾砲4門の備砲竣工

・大正15年7月、下関重砲兵連隊二十四糎加農演習砲台の新設工事実施の認可

・昭和2年(1927)7月、下関重砲兵連隊二十四糎加農演習砲台の新設工事竣工

・場所は現在の下関市南大坪町で、当時珠数山と呼ばれた山麓一帯

・遺構:二十八糎榴弾砲台は宅地化で消滅するも二十四糎加農砲台が現存

 

金比羅公園から珠数山演習砲台跡地を望む。

 

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【下関要塞十五糎加農演習砲台】

・昭和10年(1935)の史料にて新設工事に言及

・金比羅山堡塁右肩角前方第一砲床より距離約104m、標高56m付近に設置

・備砲は四五式十五糎加農改造固定式1門

・竣工期限は昭和11年2月末とする

 

金比羅山堡塁の右肩角前方を見る。下ってみれば何かあるかも(^^;

 

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史料を参考に5つの演習砲台を紹介してきましたが、推測を交えて纏めてみると以下の通りです。

 

明治20年代前半に28Hと24Kの重砲を扱う丸尾山演習砲台が築城、その後9K・12K・9Mと言った軽砲演習砲台が関山、隠山、数珠山の3か所に設けられたが、大正期に入ると各要塞の軽砲演習砲台は教育上必要なしとされたため、関山、隠山、数珠山の3砲台は大正6年4月5日付で廃止された。

その後大正末期には、旧隠山および珠数山砲台敷地に下関重砲兵連隊演習砲台が新設されることになり、大正15年に28H砲台、昭和2年に24K砲台が竣工、両砲台を合わせて珠数山演習砲台と呼称された。

さらに、対潜水艦用に沿岸砲台に配備されることになった四五式十五糎加農改造固定式の演習用に、下関要塞十五糎加農演習砲台が昭和11年ごろに建設された。

 

まぁこんな感じでしょうか。

5つの演習砲台で遺構が残るのは珠数山の二十四糎加農演習砲台だけですので、次回のエントリーで紹介します。

 

以上、下関要塞演習砲台の概略でした。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「下関重砲兵連隊史」(下関重砲兵連隊史刊行会)

「下ノ関丸尾山演習用砲床据付工事竣工の義に付進達」(Ref No.C10060365300 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「演習砲台新営工事の件」(Ref No.C01003808500 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「下関要塞除籍演習砲台附属補助建設物利用の件」(Ref No.C03010941300 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「下関要塞演習砲台関係竣功図書の件」(Ref No.C01007468800 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)