今日は下関要塞地帯の最も外側に引かれた区割線を辿ります。

 

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要塞地帯の概略に書きましたが簡単に説明します。

 

明治31年(1898)7月、『要塞近傍ニ於ケル水陸測量等ノ取締ニ関スル件』が公布され、要塞における防御営造物(既設・未設とも)の周囲より外方5,750間(約10,450m)以内において、水陸の形状を測量、模写、撮影、筆記をしようとする者は要塞司令官の許可が必要となりました。

ここで初めて要塞の区域が示されたわけですが、そのラインを一般庶民に示す方法として、区割線に沿って約250間(約450m)毎に区域標識並びに標札を植設することになりました。

 

翌年の明治32年(1899)7月15日には、要塞地帯をさらに細かく区分けするとともに、域内における禁止・制限事項や罰則の明文化を目的とした『要塞地帯法』が公布されました。

 

・第一区 基線より250間(約450m)以内、及び基線と防御営造物間の区域

・第二区 基線より750間(約1,360m)以内

・第三区 基線より2,250間(約4,090m)以内

・第七条第二項区域 第三区の境界線より外方3,500間(約6,360m)以内

 

『要塞地帯法』第七条

何人ト雖要塞司令官ノ許可ヲ得ルニ非サレバ要塞地帯内水陸ノ形状ヲ測量、撮影、模寫、碌取スルコトヲ得ス

前項ノ規定ハ要塞地帯外ト雖第三區ノ境界線ヨリ外方三千五百間以内ノ區域ニ於テ之ヲ適用ス

 

なお、『要塞地帯法』で定められた第七条第二項区域(第3区の境界線より外方3,500間以内)は、『要塞近傍ニ於ケル水陸測量等ノ取締ニ関スル件』の「要塞における防御営造物(既設・未設とも)の周囲より外方5,750間(約10,450m)以内」と同一ラインとなります。

 

『要塞地帯法』公布翌月の8月11日には、施行規則の発布と合わせて各地の要塞地帯の概見草図が告示されました。ただ、概見草図では大まかな線引きしか示されませんでしたので、実際の区割線上には標識および標札が境界線の外方に向けて設置されることになりました。なおこの時設置された標識の年月日は、下関要塞においてはすべて“明治32年9月1日”となっています。

 

詳しくはこちらにて。

 

 

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以前書いた概略から抜粋して説明しましたが、第7条第2項区域は下関要塞地帯のもっとも外側に引かれた区割線であり、このライン上にも区域標が植設されました。以下、明治43年(1910)における下関要塞地帯図にて第7条第2項区域を黄色線で示してみました。地図では「区外」と書かれているラインとなります。

 

北側は山口県下関市の吉見~清末間に引かれ、海を通って西側から東側に、福岡県北九州市若松区、遠賀郡芦屋町、中間市、鞍手郡鞍手町、直方市、北九州市小倉南区、京都郡苅田町に跨っています。

なお「第六五号」と「第一〇ニ号」の2本が確認した区域標となります。

 

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では第六五号標石から見て行きます。

 

標石は中間市(当時は底井野村)の八剣(やつるぎ)神社の境内に立っています。

 

由緒書き。

 

標石は矢印の所にあります。

 

表面に“要塞地区域標”と刻まれた標石です。最後の“標”は掠れて判読できませんが、おそらく“標”で間違いないと思われます。

 

右面に“第六五号”の通し番号があります。

裏面は判読不明ですが、おそらく他の標石と同じく“陸軍省”かと。

 

左面には“明治三十二年五月一日”の年月日が刻まれています。

 

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現存する明治期の下関要塞地帯標は、先ほども書いた通り、『要塞地帯法』の施行に伴い設置されたすべての標石において「明治32年9月1日」の年月日が記されていますので、唯一の例外がこの要塞地区域標の「明治32年5月1日」です。

つまりこの標石は、『要塞地帯法』制定以前の『要塞近傍ニ於ケル水陸測量等ノ取締ニ関スル件』に基づく物であり、史料を見ると下関要塞において明治32年(1899)3月に植設実施の伺いが出ていますので、この伺いに従って設置されたと推測できます。

 

なお現在の標石の場所については別の所から移設されたとも考えられますが、要塞地帯図の65号の位置とほぼ合致しますので、当時からここに置かれていたと仮置しておきます。

 

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次は2本目の第一〇二号標石を見に行きます。

 

1本目の第六五号標石は道路沿いの神社に立っているので簡単に見に行けますが、第一〇二号標石は山の中にあるので登山が必要となります。

標石は北部九州の登山者に人気の福智山(標高901m)の山頂手前に立っています。登山道沿いにありますので、山さえ登れば簡単に見つけることができます。

 

この標石を発見した2年前は、尺岳から福智山の縦走ピストン15㎞登山を行いましたが、こんなに歩かなくとも福智山ダムあたりから登ればもっと短時間で済みます。まぁ登山が趣味なので。

 

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尺岳登頂後に福智山を目指します。

看板に4.7㎞と書かれています。まぁ遠かったですね。

 

遠いとは言え道は良いので楽勝です。

 

福智山まであと0.7㎞の看板が立っていますが、標石はこの手前にあります。ただ、標石に気づいたのは行きではなく帰りでした。そもそも標石探しではなく普通の登山で来ていたので(^^;

 

と言うわけで、標石の紹介は後回しにしてまずは登頂します。

看板から山頂までは急坂で若干荒れています。

 

山小屋に到着しましたが山頂はまだ先です。

 

これを上がると。。。

 

登頂です(・∀・)

 

遥か先に小倉市街地、関門海峡、対岸の下関市が見えます。

 

休みの日は人でいっぱいになる山頂を一人占め。真夏の昼下がりのクソ暑い日だったからそりゃ誰もおらんわな(^^;

 

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遠回りしましたが、下山時に発見した第一〇ニ号標石です。

 

表面には“下関要塞区域標”と刻まれています。

 

右面に“第一〇二号”

明治期では旧字体の“號”が使われている標石がほとんどなので“号”は珍しいです。

 

左面に“明治三十二年九月一日”

 

裏面に“陸軍省”。標石は2か所に亀裂が入っています。

 

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第一〇二号の日付は“明治三十二年九月一日”であることから『要塞地帯法』施行後の植設であることが窺えます。

また、第六五号の“要塞地”に対し第一〇二号は“下関要塞”となっていますが、これは明治32年8月11日に「下関要塞地」が示されたことに伴って区域標の冠名も変更になったと言うことでしょう。

 

ところで、「要塞地区域標」と「下関要塞区域標」がなぜ混在しているのでしょうか?

下関要塞地帯の最も外側に引かれた第七条第二項区域は明治43年の下関要塞地帯図で見ても広大であり、植設された区域標は150本近くに上ります。

最初の区域標の植設は“明治三十二年五月一日”前後に開始されたと思われますが、8月11日には『要塞地帯法』による変更が生じることになりましたので、おそらく変更までの3ヶ月間では150本近くの区域標をすべて完成させることができなかったのではないでしょうか?

つまり、区域標に「要塞地区域標/明治三十二年五月一日」の文字を刻んで植設していたところ途中で変更が生じたので、「下関要塞区域標/明治三十二年九月一日」の文字に改めて植設を再開した。これによって2種類の表記が混在することになった、、、と言うわけです。本当のところは分かりませんが、このように推測しておきます。

 

以上、下関要塞区域標でした。