母・望月令子(旧姓・三嶋令子)
母方の祖母は岩手県花巻市の出身で、彼女の妹は小学校で宮沢賢治の妹と同級生だったそうな。女学校の頃に父の仕事の都合で一家は山口に転居した。
山口で祖母が見合いで結婚した相手は陸軍中佐で、戦時中は福岡の甘木市に住み、毎日部隊へ出勤するに当たっては当番兵が馬を引いて迎えに来ていたという。その祖父は、4人の子供(男男女女)を残してニューギニアで戦死した。母は上から3番目で長女だった。
母が生まれたのは佐賀県で、福岡に越したので出身高校は県立朝倉、後に作家になる後藤明生が同級生にいた。その後藤が母のことを片思いの女性として小説に登場させたことが今でも自慢だ(『挟み撃ち』という小説に「大佐の娘」として出てくる)。
そんな九州人の母が、福岡で知り合った父と結婚していきなり極寒の網走に住むことになったわけだ。しばらくして札幌に越したが、やはり慣れない北国の生活は大変だったのではないだろうか。
当時、九州・北海道間は寝台列車にふた晩乗る、片道2泊3日の大旅行だった。母親や兄弟は全員九州なのでほとんど会うこともなく、北海道にいた9年間に里帰りは2回しかできなかった。だから玉のような男の子(おれ)の顔を母親に見せたのも幼時には2回きりだったことになる。
おれが幼稚園や小学校の頃は、けっこう厳しい母親という印象があった。字の書き方とか箸の持ち方などについてよく注意されたり、おれが家の中ではおしゃべりなのに外では引っ込み思案なことも不満だったようだ。それと、勉強はまあまあできるのに体育がさっぱりダメだったこととかも。
なので子供時代は何とか母に叱られないようにしようと気を配っていたが、今になって思うと大した問題じゃなかったな。人間そんなに変わるものでもないし。大人になってみれば体育なんてできなくても別に困りゃしないし。
大学は辞めてアニメの仕事をしたいとおれが言った時には「やりたいならやりなさい」と答えてくれたので、けっこう大人物なのかも知れない。
昔おれが通っていた中学校に母親卓球クラブがあって、そこに入った母は卓球が生涯の趣味になった。社交性がある人なのでどんどん友達を作って卓球三昧。国際審判員の資格も持っているらしい。現在でもまだ友人たちと温泉旅行とか水彩画のグループ展とかやっている。
父とはうまくいっていなかった時代もかつてあったが、父の最期の数年間はジャカルタで仲良くやっていたので結果としては良かったと思っている。
今90歳。
やたらとタフで、「杖は年寄りくさいから」との理由で今でも使わないし、歯も1本も欠けてなくて全部自分の歯。
いま唯一心配なのは、おれが父と同じく食道がん患者なので、母に対して逆縁をしてしまうかも知れないこと、だろうか。