ふと両親のことでも書いておこう・父編 | 日本語あれこれ研究室

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       父・望月由三

 

 父は昭和7年、北海道根室市生まれ。父の父は望月自由という名で、その自由さんの三男だったから父は由三である。ただしなぜか「ゆうぞう」ではなく「よしぞう」と読む。

 父は男6人女4人の計10人兄弟だった。おれの曽祖父が明治時代にニシン相場を当て込んで新潟から北海道に渡ったが大失敗し、その後の望月家は根室で貧農を営んでいた由。

 

 10人兄弟のうちで北海道を出て内地へ行ったのは、父とその下の弟との2人だけで、あとは全員北海道で生涯を暮らした。

 父は東京農工大学に入って、府中の学生寮で生活。その間に東大を3回も受験したそうで、よっぽど大志を抱いていたのか? 農工大卒業後は北海道開発局に入局。その研修か何かで福岡に滞在した際に母と出会い、昭和33年に東京で結婚式を挙げて、開発局の網走支所に勤務した。

 ここ網走の市立病院で、真冬のさなかに玉のような男の子(おれ)が誕生。

 

 おれが1歳のときに札幌に勤務になり官舎住まい。暖房は石炭ストーブ。この札幌にいた8年間くらいの間に我が家では第二子(弟)が生まれた。高度成長期で、家には掃除機・白黒テレビ・電気冷蔵庫・テープレコーダーなどが次々とやってきた。

 おれが小学3年の時に、父は役所を辞めて東京で友人たちと会社を起業することになり、我が家は東京の小金井市に転居した。

 詳しくは知らないのだが、農業土木のコンサルタント会社だったようだ。父は農業用水関係の設計技師で、農林省などの仕事を受注していた。

 

 その1年後には当時人気だった葛飾区の高層公団住宅に引っ越し、ここで第三子(妹)が誕生。さらに6年後には近くで分譲マンションを購入。このマンションには現在でも母が健在で暮らしている。

 この頃から父の仕事は海外出張が非常に多くなり、イランを皮切りに、アジアやアフリカの国々に長期に亘って出かけることが日常になっていた。

 

 おれはといえば二浪して早稲田大学に入ったものの、趣味のアニメにのめり込みすぎて、大学の卒業が覚束なくなっていた。父が海外に出かけて不在の間に、アニメ会社に入社して大学を退学し、実家を出た。父とは関係が悪化してしまったのである。

 このあと6~7年ほど父とは全く顔を合わせなかった。

 

 おれ自身はアニメの仕事に集中していたし、父も外国にいることが多かったのだと思う。家族全員でまた顔を合わせるようになったのは、おれが結婚したタイミングだった。

 いつぞや父はセネガルでの仕事に数年間を費やしたようで、それが特に印象に残っているらしい。

 コンサルタント会社を退職した父は、JICAの専門員として、母と一緒にジャカルタに長期滞在していた。この時のおれは40歳前後で、妻子を連れて年末年始に都合3回ジャカルタを訪れ、インドネシア国内旅行を楽しんだ。

 

 JICAの仕事をしている場合、年に1度日本に戻って健康診断を受けなければならないのだが、2001年に帰国した際に食道がんの末期を宣告されてしまった(がん自体は数年前から判っていたのだが)。すぐに入院になり、1か月ほどで死んでしまった。

 死の前年に、両親と我々三兄弟とその配偶者・子供の全員で、秩父に温泉旅行をした。あれが家族にとって、最後の楽しい行事となった。

 享年68。