「遠ざかる」について | 日本語あれこれ研究室

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 人や物が離れて遠くなることを「遠ざかる」というが、おれは若い頃(十代から二十代くらいの頃)、この言葉を書く時に「遠去かる」という文字遣いをしていた。そう書くものだと思っていたのだ。多分、どこかにこう書いてあるのを見て覚えたのだろう。

 ある時、誰も「遠去かる」などと書いていないことに気づいた。どの本でももっぱら「遠ざかる」となっている。国語辞典を引いても「遠ざかる」としか書かれていない。おれが思い込んでいたのは間違いだったのかな?と。

 

 その後は自分も「遠ざかる」と仮名で書くようになった(絵コンテではこの言葉、割と頻繁に使うのだ)。

 考えてみれば、「去」という漢字は訓読みでは「さる」(または「いぬ」)と読むのであって、「さかる」とは読まない。それに「遠ざかる」の他動詞である「遠ざける」を仮に「遠去ける」と書くならこれはさらに妙である。

 

 ところがつい先日のこと。

 たまたまあるアンソロジー(『日本SFの臨界点[怪奇篇]』)を読んでいたら、「遠去かる」が出てきたのだ。

 光波耀子「黄金珊瑚」(1961)の中の一文。

 

部屋を出て、遠去かるにつれ、次第に、私を捕えた魔力はうすれ、いつもの自分になって来たのが分りました。

 

 ほら見ろ、やっぱりあったじゃないか(誰に言ってる?)。かつてはこの書き方をする人もあったのだ。もちろん当て字ではあろうけれど。だからおれもかつては「遠去かる」と覚えていたのだ。

 さらにこの本を読み進めると、他動詞「遠ざける」の漢字表記も登場するのである。

 森岡浩之「A Boy Meets A Girl」(1999)の中の一節。

 

彼らを送るには光の束が使われた。少年を遠避けた光である。

 

 こちらは「遠ざける」に「避ける」の文字が使われ、意味的には見事に合っている。しかしこの場合は、慣用的な当て字というよりは作者の創作当て字だという気がする。書かれた年代が、ワープロソフトの普及後だからである。

 ワープロは一般的でない当て字は変換してくれないので、かつては自由奔放に使われていた様々な当て字が昨今の文章では影を潜めているからだ。著者が確信的に使わない限り表面に現れて来ないことが多い。

 

 何にせよ、一冊の本の中に「遠ざかる」「遠ざける」の漢字表記が両方とも出てきて、長年のもやもやを考え直すことができて楽しかったという話。

 

 

ちなみに、「遠ざかる」の「さかる(離る)」とは古語で「離れる」の意の自動詞。「遠ざける」の「さける」(文語では終止形「さく(離く)」)は「さかる(離る)」の他動詞。