釈尊はいわれる。
「滝や水で体を洗うことや、水晶のような石や、火を燃やすことで
その人の業が洗い流され、なした罪が消えることはない。
日常の 質素で澄んだ食事と、澄んだ善行こそ最大の沐浴である」と。
《解説》
多くの人は不可思議なパワーを求めたり、予言を求めたり、現世御利益を求め
それを称賛するから、つい弱い修行者がそれを得るために修行する。
やがてそれは利に結びつくから魂が汚れ、結局今生の罪が上積みされてゆくだけであることを知ることになる。
心弱い修行者は 人を救うよりも金銭の多少に心が揺り動かされていく。
なぜなら そのパワーに深くたよる分、請け負う人も自分も欲のトラブルを招き金銭の垢にまみれて苦しむ。
根底にある欲を透明にし、誘惑に負けない正しく生きる力をつけずにさまざまな不思議な力をつけても なんになろう。
人を混乱に落とし入れ、不安を基にお布施を要求する人に近づいてはならない。
不思議なパワーに目がくらんではいけない。
まず私たちは釈尊のいわれるように、欲の激流を渡る決心と 欲の激流を渡してくれる先導者に出会えるかどうかが大切。
そこで釈尊は、師と思える人に出会えたなら しばらく3~4年間はその人の毎日の生き方を眺めてごらんなさい。身近に寄って話してごらんなさい。
その声が澄んでいるかどうか、その説が明るいかどうか、その言葉に励ましと勇気と希望が湧いてくる力があるかどうか、長く接して確かめなさいといわれる。
怒りや 人の評価と 人の良し悪しにとりつかれていないか
金銭のある人ばかりを歓迎していないか
また自分が金銭に執着していないか
いつも魂を清めるような生き方を求めているか
人を救いたいと願っているか
その人が 澄んでいるかどうかは僅かの期間ではわからないと。
マザー・テレサのように純粋で 澄んでいるかと。
心から感激し 心からその人を手伝いたいと純粋に思えるかと・・・。
もし そんな師に会えたなら、仕事の都合を後まわしにして 声に接し生の光を浴びなさい。
生き方を学び 共に歩み 今世の宿題を果たすべく心のあり方をまねなさい。
仕事の行事や 日常の面倒臭さをのりこえて、その人の伴にゆき身近に説法を聞いて、自分と人々を救う力を身につけなさい。
そんな人に出会ったら、セミナーや説法の会に出席できない言い訳を準備しないようにしよう。
話が心にしみた時、透明感ある人生を選べるだろう。
(高木書房「あなたを不安から救ってくれる お釈迦さまのことば」より)